淀川の「象徴魚」復活の途 市民が見守るイタセンパラ
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絶滅危惧種の淡水魚イタセンパラは、淀川のシンボルフィッシュと呼ばれる。国の天然記念物に指定されて約半世紀。約15年前に淀川からいったん姿を消したが、人工池で繁殖させた個体の放流により復活の途上にある。保全活動の舞台、城北ワンド(大阪市旭区)では、市民らによる外来魚駆除の取り組みが続く。
「イタセンパラです!」。9月下旬、菅原城北大橋の下の城北ワンド。地引き網で魚を採集していた一団から声が上がった。2013年秋にこの場所で放流したイタセンパラが、代を重ねて繁殖している証しだ。
ワンドは淀川の本流に沿って並ぶ池のような水域。明治初期以降、川岸から突き出すように設置された「ケレップ水制」が生み出した遺構だ。木製の工作物(水制)が川幅を狭め、速度を増した流れが河床の砂を押し流すことで蒸気船が通れる水深を確保した。
この日、ワンドの調査をしていたのは、大阪府立環境農林水産総合研究所の生物多様性センター(大阪府寝屋川市)のメンバーら。13年に放流した500匹のイタセンパラは、同センターの敷地内の池でほぼ自然の状態で育ったものだ。
二枚貝に産卵
上原一彦総括研究員によると、イタセンパラはコイ科のタナゴの仲間で体長約10センチ。淀川水系や富山平野、濃尾平野だけに生息し、繁殖期の秋にはメスが生きている二枚貝の中に産卵するユニークな生態を持つ。
好んで生息するのは、河川とつながる池のような場所。かつて京都盆地南部の宇治川、桂川、木津川の合流部付近にあった巨椋池(おぐらいけ)が主な生息地だったとみられる。「川の増水時には水がかき回され、環境が一新される」(上原さん)という条件は、繁殖のパートナーである二枚貝の生息にも適しているという。

かつてのワンドも平時は静穏、増水時は川の水でかき回される、巨椋池に似た環境。イタセンパラはそこに生息域を広げたが、安寧は長く続かなかった。
上原さんによると、この100年ほどの間は危機の連続だった。①巨椋池が宇治川から分離し、さらに干拓(20世紀初め~1941年)②高度成長期に淀川の水質が悪化(60年代)③大規模河川改修に伴うワンド埋め立て(70年代)――と相次いですみかを失った。
70年代の改修は、河川管理の想定を100年に1度の洪水確率から200年に1度にシフトし、川幅を広げ深く掘り下げることで、川を水路のように直線的に通す計画だった。川底を掘って出た砂で河川敷を整備し公園や野球場にするなど、住民には歓迎されたが、ワンドを失うイタセンパラには死活問題だった。
一方で、この3度目の危機との苦闘が、イタセンパラの名前を世に知らしめた面もある。71年に発足した財団法人淡水魚保護協会(94年解散)はイタセンパラを淀川のシンボルフィッシュと位置づけ、ワンド埋め立てに反対し、天然記念物への指定を訴えた。
その結果、74年に天然記念物に指定され、ワンドも一部は残された。淀川の水質も徐々に改善し、城北ワンドは80年代半ばまで多くの淡水魚にとって楽園のような環境だったという。
しかし、その陰で第4の危機が迫っていた。淀川水系全域の改修によって、大阪市域では増水時も水位上昇が軽微になり、ワンドに川の流れが入り込む頻度が激減。すると、いつの間にかオオクチバスやブルーギルなどの外来魚が勢力を伸ばし、イタセンパラは2005年を最後に淀川で姿を確認されなくなった。
外来魚駆除続く
09年以降、淀川への成魚の放流を断続的に実施し、野生復帰を目指す取り組みは10年余り続く。城北ワンドでは放流翌年から毎年、稚魚の成長を確認。毎月2回ほど行う外来魚駆除は市民や企業も加わる「淀川水系イタセンパラ保全市民ネットワーク」(イタセンネット)が支えている。

通常は密漁を警戒し、放流場所を非公開とすることが多いが、城北ワンドの保全活動はあえて公開。「地域住民に関心を持ってもらうことで、より多くの視線が注がれる」(上原さん)という効果のほか、大学や企業の参加で活動の継続性も高まるためだ。
市民参加型の保全活動は、新型コロナウイルス下で中断が相次ぎ、停滞も懸念されるが、我々の暮らしの安全と引き換えにすみかを追われたイタセンパラのためにも、息の長い取り組みにしていく必要がある。(影井幹夫)
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