震災の教訓、残したいが… 個人で遺構運営に限界も

東日本大震災の被災地では私費を投じて壊れた建物を残したり、伝承館を開いたりする人がいる。しかし個人や民間企業で維持するには限界もあり、解体を迫られる遺構もある。専門家は災害の多様な側面を伝えるためには公営だけではなく、さまざまな運営主体が必要だと訴える。
11年前の東日本大震災で津波が到達した岩手県陸前高田市の災害危険区域に鉄筋コンクリートの建物がぽつんと残る。同市の米沢祐一さんが一家で営んだ包装資材卸小売業「米沢商会」のビルだ。
11歳の娘、多恵さんの世代に「震災の教訓だけではなく、ここに町があったことも忘れてほしくない」と伝えるため、人が住めなくなった地域に自費で保存を続ける。
米沢さんは震災当時、ビルの屋上の煙突にのぼり、足元まで迫った津波を間一髪で逃れた。しかし両親と弟は濁流にのまれ犠牲になり、自宅も流失。その後、震災前の建物が姿を消していくと、ビルを残したいという思いは強くなった。
震災から数年後、近くの公共施設と一緒に壊せば、解体費として見込む約700万円を公費で賄えると言われ悩んだ時期もあった。しかし妻の「お金は頑張って働けばいい。でも建物は壊したら元に戻らないよ」という言葉もあり、保存を決めた。ビルの固定資産税は支払い続けている。
個人で残す以上、いつかは限界が来る。将来娘が「必要ない」と言った場合は壊す覚悟だ。その際に負担をかけないよう、貯金もしている。「自宅がなくなり、アルバムも残っていない。両親との唯一の思い出であり、形見でもあり、命の恩人でもある」。ビルに寄せる思いは尽きない。
一方、次世代への負担を懸念し、保存を断念したケースもある。

宮城県名取市の鈴木英二さんは被災した木造2階建ての自宅を約400万円をかけ補強した。地区は災害危険区域に指定され、住民は去ったが、「震災を伝えるため」残した自宅には国内外から多くの人が見学に訪れた。
しかし残し続ければ将来は子どもの負担になると、約10年半がたち解体を決断。周辺一帯の開発を進める市に土地を売った。
解体した家の木材などの一部は近くの防災公園に作られた地区の歴史を伝えるスペースで再利用され、展示される標柱やベンチに生まれ変わった。鈴木さんは3月末、展示スペースの完成式典に参列。「かつての地区の営みや津波の被害を伝承していけたらいい」と語る。
行政が関わる遺構や伝承施設では伝える内容に制限がかかる場合もあり、東北大の佐藤翔輔准教授(災害伝承学)は「災害の多様性を表現するにはいろいろな主体があったほうがいい」と指摘する。
やむを得ない事情で遺構を解体する場合でも「建物を3Dスキャンしてデータを残す方法もある。全国から支援者を募るといった方法で継続できるように考えるべきだ」と話す。〔共同〕