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戦国武将も恐れた千利休のすごみ 堺にVR展示で登場

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「さかい利晶の杜」のVR「タイムトリップ堺」に現れる千利休

茶の湯を大成した千利休が今年4月、出身地である堺市の記念館に新たな姿で現れた。仮想現実(VR)空間の利休は凄(すご)みのある顔をしており、「わび・さび」のイメージからかけ離れている。その迫力はどこから来るのか。自らと弟子が天下人に切腹を命じられたことと関係するのか。来年の生誕500年を前に探ってみた。

「不気味だ」「親しみづらい」。堺市の「さかい利晶の杜(もり)」でVRの利休が完成すると、職員たちはこんな感想を漏らした。ゴーグルをつけて見ると、立体感のあるホログラムの茶室で利休が茶を点(た)ててくれる。長身、黒ずくめで眼光鋭い。

「威圧感のある風貌に」という注文を出した矢内一磨学芸員に尋ねると、主な理由は2つ。1つは62歳の利休を長谷川等伯が描いたとされる「千利休像」の印象が強かったから。所蔵する正木美術館(大阪府忠岡町)の原山詠子学芸員は「まるで武人のように気迫に満ちた姿」と表現する。生前の年が記された現存唯一の肖像で、これ以外は没後に描かれている。

「千利休像」(部分図、正木美術館蔵)。生前の利休は武人のような気迫に満ちていた

もう1つは勇猛な戦国武将として知られた福島正則の逸話。「自分はどんな強敵にもひるんだことはないが、利休と向かい合うと臆したように覚えた」と述懐したという。矢内氏は「茶室という空間を支配する利休を肌で感じ、身動きできないような感覚を味わったのではないか」と推測する。

国立民族学博物館教授などを歴任した、MIHO MUSEUM(滋賀県甲賀市)の熊倉功夫館長は「凄みを重視しない」としつつ「利休は性格的に激しく、志を貫くためなら死んでもいいと考えていた」と話す。豊臣秀吉が高山右近にキリスト教の信仰をやめるよう迫ったときのこと。利休は説得を頼まれたが、右近が「キリシタンを捨てましょうか」と言うと「そうなったら貴公の茶は飲めない」と答えた。

利休の凄みから連想するのは、織田信長亡き後、茶頭として仕えた秀吉に切腹を命じられた最期だ(切腹していないとの説もある)。利休の弟子で武将茶人の古田織部も、徳川家康に切腹させられた。茶道の第一人者に対し、天下人が生かしておけないと考えた点が共通している。

駿府城に諸大名が集まって食事をしていたとき、織部が入ってくると皆が一斉に立ち上がった――。茶道上田宗箇(そうこ)流家元の上田宗冏(けい)氏は「烈公間話」のこんな場面を挙げる。織部が茶道という文化のリーダーだったので諸大名は思わず起立したのだろう。宗冏氏は「家康は駿府の一件を聞き、自分以外のリーダーの存在は具合が悪いと警戒したのではないか」とみる。

上田宗箇は秀吉の家臣で、利休、織部に師事し武家茶道を創設。戦では一番槍(やり)を務める猛者だったが、切腹した織部との関係が表に出ないよう気を使っていたという。宗冏氏は16代当主で、宗箇が広島城の上屋敷に築いた茶室や庭園を広島市内に再現した。

熊倉氏は利休、織部の切腹を「天下人が文化の下克上を危険視したために起きた」と考える。氏は下克上を世界観の転換と捉える。秀吉、家康は乱世を生き抜いたが、天下人になった以上は安定が望ましい。一方、利休や織部は茶道の世界で常識を打ち破って新たな価値観を提示していた。

足軽の一人も従えない茶人を天下人が恐れるのは奇異にも見える。だが熊倉氏は「為政者は文化を恐れる。だから歴史上、思想弾圧が繰り返された」と言う。

死をも恐れぬ覚悟で、茶道という世界の創造主になり、戦国武将を畏怖させた茶人たち。利休は切腹を命じられても一切釈明をしなかったという。織部も同じだった

(塩田宏之)

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