熱戦見守る聖火台 花開く太陽、前回は「鋳物の町」発
点描 1964→2021

23日午後11時45分すぎ、東京五輪の開会式がクライマックスを迎えた。約1万人が121日間かけてつないだ聖火の最終点火。多様性や共生社会など大会の理念を体現する役割はテニス女子の大坂なおみ選手が担った。白い球体が花のように開き、現れた聖火台に両手でトーチをかざす。無観客の会場に立った火柱。厳かな瞬間をアスリートたちが静かに見守った。
1964年10月10日、国立競技場(東京・新宿)に集まった約7万人の前で、戦後復興の象徴となる火をともしたのは、原爆が投下された45年8月6日に広島県三次市で生まれた坂井義則さん(当時19)だった。
当時の聖火台は現在、競技場の東側ゲート前にある。重厚さに変わりはないが、交通規制などのためパラリンピック閉幕まで一般公開されない。
完成には職人親子2代の心血が注がれた。57年、「鋳物の町」と呼ばれる埼玉県川口市の名工、鈴木万之助さんが制作の依頼を受ける。直径と高さは2.1メートル、重さが推定4トンに及ぶ巨大な作品。溶けた鋳鉄を型に流し込む「湯入れ」作業に失敗し、当時68歳の万之助さんは心労のため急逝した。
父の遺志は文吾さんら息子たちが継ぎ、一筋縄ではいかない工程を乗り越えて納期に間に合わせた。文吾さんは2008年に亡くなるまで毎年磨き続けていた。今は弟の昭重さんが手入れしている。

日本の高度成長をスポーツを通して見守ってきた聖火台は、旧競技場が解体された15年以降、東日本大震災の被災地を回った。19年に川口市に里帰りを果たした後、新競技場へ。2度目となる祭典の舞台のそばで、バトンタッチの時を待った。
お目見えした新たな聖火台は世界的に活躍するデザイナー、佐藤オオキ氏(43)が考案した。球体は日章旗に描かれる赤い日の丸が象徴する太陽をモチーフにし、富士山を模した山型のオブジェの頂点に置いた。
東京大会のコンセプトである「持続可能性」も意識、二酸化炭素を出さない水素燃料を採用した。五輪史上初の試みで脱炭素社会の実現を世界にアピールする。
国立競技場から約9キロ。多くの競技会場が集まる臨海部の遊歩道「夢の大橋」(東京・江東)に、デザインが全く同じ聖火台が設置されている。
開会式でともった火は閉会式で競技場の聖火台に移されるまでの間、ここから熱戦を照らし続ける。当初は身近な存在として低い場所に設けられたが、新型コロナウイルスに伴う規制で近寄ることはかなわない。
(木村梨香)