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摘みたて完熟イチゴの菓子 川崎の農家のパティスリー

NIKKEI The STYLE

真っ赤に完熟した艶々(つやつや)のイチゴに思わず顔がほころぶタルトやショートケーキ……。口に運べばイチゴの香りがいっぱいに広がり、みずみずしい果汁と甘さがじゅわっと弾け、「イチゴって、こんなにおいしかったんだ!」と再発見の驚きと幸福感に包まれる。

ケーキを作るのは、2022年、川崎市麻生区早野のイチゴ農園内にオープンした「SLOW SWEETS(スロースイーツ)」。隣のハウスから運ばれた摘みたての完熟イチゴを扱う、農家が営む農園直結のパティスリーだ。

そもそもの始まりは20年。露地野菜農家の長男として生まれた安藤圭太さんが、10年間の旅行会社勤務を経て家業を継ぎ、イチゴ農園「SLOW FARM(スローファーム)」を開いたことだった。海外も含め様々な暮らしを見てきた安藤さんは「早野は東京都心からも近く、小田急電鉄新百合ケ丘駅から車で15分ほど。住宅地に野菜などを栽培する畑も広がり、地元でとれたものを地元で消費できて食生活がとても豊かです。世界でもこれだけ食と住が近接した土地は稀有(けう)で貴重だと改めて気づきました」と語る。

栽培作物としてイチゴを選んだのは、消費者に近い場所で育てる優位性を強く感じたから。「イチゴは収穫時の完熟度が食味に大きく影響し、甘さも香りもジューシーさも際立ちます。何よりも朝、摘みたてのおいしさは格別。ただし傷みが早いので、輸送が難しく、遠くまで運ぶと鮮度も失われてしまう」(安藤さん)。一般的に流通するイチゴはヘタの下がまだ白くて未完熟のまま収穫してしまう。「完熟のおいしさを届けたいという地方の高級イチゴ農家は、輸送に多くの労力とコストをかけている。ならば早野で育てれば輸送の問題を考えることなく、完熟の味を多くの消費者に知ってもらえる」

そして、遊休田だった土地を借りて温室ハウスを建て、栽培をスタート。1500平方メートルから徐々に拡張し、現在は5000平方メートルで「紅ほっぺ」や「とちおとめ」など5種類のイチゴを育てる。一番のこだわりは、完熟だ。環境制御装置完備のハウスで温度や湿度、日照などを管理し、日にちをかけてじっくり成熟させることで、旨(うま)みがたっぷり蓄積された甘いイチゴに仕上げる。

そこで浮上したのが予想を大きく上回る量の廃棄の問題だ。「傷ついたり、小さすぎたりするイチゴが、栽培初年度は1日で45リットルのゴミ袋3〜5個分にも。『規模を拡大していくと、さらに量が増えて大きな障害になる。どうにか再利用しなければ』と頭を抱えました」

スイーツコンサルタントの関根夏子さんが、安藤さんのパティシエ募集をSNS(交流サイト)で知ったのは、20年勤めた都内のパティスリーを退職して間もない頃だった。「パティスリーでイチゴは欠かせない素材で、これまでもたくさん使ってきました。でも、求められるのは形やサイズがそろった赤いイチゴだけ。味に遜色ない規格外品も多いはずなのに、仕事でそれを受け入れられずにいる自分に悶々(もんもん)としていました」と関根さん。

面接で安藤さんから伝えられた廃棄の量を聞いて、「ジャムやコンポートにするだけでは追いつかない。だったらパティスリーにして年中お客さんに来てもらえるようにしませんか、と私から提案したのです」と関根さんは振り返る。2人の思いが交わり、誕生したのが「SLOW SWEETS」だ。

まず目を奪われるのは、フレッシュな完熟イチゴを使ったケーキの数々。形のよいものは上に、形の悪いものは中にサンドして使われる。「どのイチゴもヘタの下まで真っ赤で艶々。果肉がやわらかく、香りがよくて、甘く、果汁がすごい。一般的にケーキづくりに使われる、硬くて酸っぱい若いイチゴとはまったく違います」と関根さん。

だからこそ、作り手としては難しさに直面した。「イチゴがそのままでも主役級であるが故に、お菓子をつくるうえでのバランスも製法も従来の感覚が通用せず、一から考え直すのが大変でした」。そして、「望んでもなかなか使えないような完熟イチゴを扱えるのは幸せなこと。シンプルに仕上げつつ、たっぷりの果汁に負けないよう、クリームの乳脂肪分を高くしてボディー感を出しています」。

焼き菓子もまた、このパティスリーの主役だ。フィナンシェはまず、規格外のイチゴを薄く切って48時間低温熟成し、旨みを凝縮。その粉末を生地に練りこみ、自家製イチゴジャムを絞って香り豊かに焼き上げる。マドレーヌには、自家製の糖漬けイチゴを使用。糖漬けを作る際に副産物として生まれたイチゴシロップは瓶に詰めて販売するほか、夏に人気のかき氷用シロップとして活用する。一連の工夫により「廃棄はほぼゼロになりました。そんなイチゴ農家はほとんどいないと思います」と安藤さんは胸を張る。

農園とパティスリーの名前の由来は、スローフードのSLOWから。「この地でおいしい完熟イチゴや極上のイチゴスイーツ、楽しい場所をつくることで、地域の人のライフスタイルを豊かにし、幸せをもたらしていくことを目指しています」と安藤さん。若き農家の挑戦は、始まったばかりだ。

ライター 瀬戸理恵子

高井潤撮影

[NIKKEI The STYLE 2023年2月19日付]

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