死んだ臓器を蘇生させられるか 科学者たちの挑戦 - 日本経済新聞
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死んだ臓器を蘇生させられるか 科学者たちの挑戦

ナショナルジオグラフィック

栄養とタンパク質と薬剤が入った混合液を送り込んで、死後数時間が経過したブタの脳を回復させたとき、米エール大学の神経科学者ネナド・セスタン氏は、生と死を分かつ境界線は考えていたほど明確ではないと悟った。実験の目的は、脳を生き返らせることではなく、脳内の結びつきの研究だったが、2019年にこの衝撃的な研究結果を発表するやいなや、彼の研究室には世界中から問い合わせが殺到した。

「エール大学の同僚をはじめ、いろいろな人たちがやってきて、『これを腎臓でやってみなければ。あれやこれもやってみるべきだ』と言うんです」とセスタン氏は言う。大きな関心が寄せられたことから、セスタン氏のチームは今度は他の臓器にも使える混合液を作り、その液体と体内に送り込むシステムを「OrganEx」と名付けた。

2022年8月3日付けで学術誌「Nature」に発表されたセスタン氏の研究は、死後1時間室温で放置されたブタにOrganExを使うと、複数の臓器(心臓、肝臓、脳、腎臓)を救い、機能させられる可能性を示した初めての例となった。「わたしは神経科学者なんです」とセスタン氏は笑う。「肝臓や心臓などの臓器を扱うことになるとは夢にも思っていませんでした。それでも、臓器移植に対する高いニーズと、それがまだ十分に満たされていないという事実は大きなモチベーションとなりました」

世界保健機関(WHO)の試算では、世界で臓器移植を必要とする人々のうち、実際にこれを受けられるのはわずか10%だ。しかも、臓器保存がすぐに行われなかったせいで、毎年大量の提供臓器が廃棄されている。たとえば2012年、米国では心臓2421個、肺1634個の移植が行われた一方で、ドナーから提供された心臓5723個、肺6510個が無駄になっている。

心臓の鼓動が止まった後、すみやかに臓器の摘出を行わなければ、移植に使えない。そのため、移植臓器の大半は、すでに生命維持装置をつけている脳死状態のドナーから提供される。

生命維持装置を取り外した後、臓器は一般に、代謝と細胞死のスピードを遅らせるために氷の上に乗せた状態で保存される。しかし、セスタン氏の研究は、いずれこうした時間の制約を緩和させる可能性を持っている。

「セスタン氏のチームが成し遂げたのは、臓器を回復させるまでの時間を稼ぐことです。これはドナープールの拡大という課題において重要な意味を持っています」と、ジョンズ・ホプキンス大学再建移植プログラムの移植医ゲラルド・ブランダッハー氏は言う。「移植医療においては、すべてが時間との闘いであり、時間は最も貴重なリソースなのです」

複数の臓器をいっぺんに回復させられるなら、自宅で亡くなって遺体をすぐに回収できない患者の臓器など、これまで廃棄されていたものも使えるようになる。そうなれば臓器の供給は増えるだろうと、研究チームの一員である医師で神経科学者のデビッド・アンドリエビック氏は言う。

「体全体に血液が循環し、細胞が復活したのは大きな驚きでした。なぜなら、人は死ぬとすぐに生化学的な反応の連鎖が起こり、これによって細胞の破壊が始まり、血流が遮断されるからです」とセスタン氏は言う。「抗凝血剤を入れた血液を体内に流し込めばいいというものではありません。それだけではうまくいかないのです」

氏の研究はこの分野に大きな衝撃をもたらし、細胞と組織がいつ、どのように死ぬのかについてのわれわれの理解を一変させた。それは、細胞や組織を生かしておく新たな手段の発見にもつながる。

「エール大学のグループは、死体の細胞が、死後少なくとも1時間は不可逆的な損傷を受けないことを証明しました」と語るのは、米ニューヨーク大学ランゴーン医療センターの集中治療医サム・パーニア氏だ。「つまり、これまで死は終わりであるという考え方が当たり前とされてきましたが、今われわれは、人は死ぬことはあっても、生き返らせる治療法が存在しうることを理解したのです」

臓器や細胞はゆっくりと死に向かう

脳などの臓器は、心臓が酸素と栄養素を含む血液を全身に送り出すのをやめたとたんに死ぬわけではない。「実はこのとき起こるさまざまな事象にはある程度の時間がかかります。おかげでわたしたちが介入し、そのプロセスを停止させ、細胞の回復を促す余地が生まれるのです」と、アンドリエビック氏は言う。

われわれの臓器が活動できるのは、すべての細胞の中にある、ミトコンドリアと呼ばれる何千個もの小さな発電所のおかげだ。これが食物をエネルギーに替えつつ、有害な副産物を除去してくれる。

しかし、血流が止まった直後の虚血と呼ばれる瞬間に、このバランスは崩壊する。ミトコンドリアは供給が減っていく栄養分を燃やし尽くし、老廃物を蓄積し、やがてそれが細胞を殺してしまう。

ミトコンドリアは一般に、酸素の助けを借りてエネルギーを生産するが、効率のあまり良くない低酸素プロセスに切り替えて、体内に蓄えられた燃料を使用することも可能だ。これは通常、5分程度持続する。エネルギーレベルが一定の割合で低下を続けた場合、まず被害を受けるのは、細胞間のコミュニケーションとエネルギー生産をコントロールする細胞のイオンバランスだ。

「沈没しないために水をくみ出し続ける必要がある船のように、細胞にはカルシウムとナトリウムを絶えず外に追い出しているポンプがあります」と、パーニア氏は説明する。しかしエネルギーがなければ(細胞膜の中にある)ポンプは作動せず、カルシウム、ナトリウム、水がどんどん入り込んでくる。

カルシウムが増えると、DNAを分解する酵素が活性化され、細胞骨格がむしばまれる。また、アポトーシスと呼ばれる細胞の自死システムのスイッチをミトコンドリアが入れてしまう。

同時に、フリーラジカル(過酸化水素や超酸化物などの不安定な分子)が、細胞膜を破壊し、酵素を不活性化させることによって被害を拡大させる。

こうした状況で、心肺蘇生法などの救命措置によって急に血流を回復させた場合、矛盾しているようではあるが、第二の、より強力な破壊の波が引き起こされることがある。血管から血液が漏れ出し、組織は膨張し、細胞死が加速されるのだ。

パーニア氏は、この現象を地震の後の津波による破壊に例えている。地震によって災害が引き起こされたとしても、多くの場合、最も大きな被害をもたらすのは津波だ。「津波対策、つまり二次損傷プロセスへの対策を確立することによって、脳の機能を救うことができます。そうなれば、医学にまったく新たな分野が生まれるでしょう」とパーニア氏は言う。

「OrganEx」では何をするのか

細胞と臓器は従来考えられてきたより死後に長い時間が経過しても回復できることを示すために、エール大学のチームは、ブタに心不全を誘発させて、死体を室温で手術台に置いておくという実験を行った。

1時間が経過した後、研究者らはブタに点滴をつなぎ、サファイアのように青い溶液を循環系に送り込んだ。この混合液は、「アミノ酸、ビタミン、代謝産物のほか、細胞の健康を促進し、細胞ストレスと細胞死を減らし、炎症を抑制するよう最適化された13種の化合物からなる混合薬」を混ぜたものだと、アンドリエビック氏は言う。

混合液はブタ自身の血と混ざり合いながら、ある装置の力を借りて6時間にわたって体内を循環する。この装置は、負傷した患者に一時的に心臓血管のサポートを提供するために使われるECMO(体外式膜型人工肺)に似ているが、こちらには毛細血管を切断することなく混合液を送り込む特別なポンプ、毒素をろ過する透析ユニット、液圧と流量を監視するセンサーが搭載されている。

比較対照のために、一部のブタには処置を施さず、また別のブタには1時間後にECMOで処置を行った。ECMOは、酸素を入れて二酸化炭素を除去した血液を体内に送り込むために使われた。

「この実験の目的は、損傷を受けた臓器の細胞死をどこまで戻せるかを確かめることです。ブタを生き返らせようとしたわけではありません」とセスタン氏は言う。

OrganExで処置をした脳、心臓、肝臓、腎臓を薄くスライスしたものを顕微鏡で調べたところ、それらが比較対照動物の分解しかけている組織と比べて、健康そうな見た目をしていた。

「単一細胞RNA配列決定(細胞内で起こっている分子過程の様子を垣間見せてくれる)」は、OrganExが細胞死を防ぎ、ブタの臓器がDNAの修復や細胞構造の維持などの基本的な機能を取り戻していることを示唆していた。さらには、心臓の細胞は鼓動を始め、肝臓の細胞は血液からブドウ糖を吸収する仕事を再開していた。

セスタン氏はしかし、結果の解釈に対しては注意が必要だと警告する。「心臓が鼓動しているとは言えるかもしれませんが、どこまで健康な心臓と同じように鼓動しているかはわかりません。さらなる研究が必要です」

遺伝子治療による臓器の改良と冷凍臓器バンクも

移植学者が最終的に目指すのは、ドナーの臓器を単に保存するだけでなく、被移植者の体内に入れる前にそれを改良することだと、米カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の胸部外科医アッバス・アーデハリ氏は言う。「今後10年ほどの間に、われわれが移殖する臓器は、われわれが摘出する臓器とは大きく異なるものになるでしょう」

たとえば、将来的には遺伝子治療によって、ドナーの臓器を被移植者の体に合わせられるかもしれない。「想像してみてください。患者は病院へ来て新しい腎臓をもらい、すぐに帰宅できるのです。免疫抑制剤も必要なくなります」

このほか、英ケンブリッジのバブラハム研究所の分子生物学者ハナン・ハジ・ムーサ氏のように、自然の中にヒントを求めている研究者もいる。「冬眠中にエネルギーを節約するために、動物たちは不必要なプロセスをいくつも停止させます」とハジ・ムーサ氏は言う。ドナー臓器において、プロセスを停止するそうしたやり方を確立すれば、臓器保存に役立つ可能性がある。

臓器の保存法を研究するブランダッハー氏は、北極圏のとある魚が持つ不凍タンパク質が、細胞を壊してしまう氷の結晶が臓器内で形成されるのを防げるかどうかを調べている。これまでのところ、不凍タンパク質を保存溶液に加えることで、臓器をマイナス6〜8℃で保存できることが証明されたという。

研究チームはまた、同じタンパク質を使って臓器の温度をマイナス150℃まで下げられるかどうかの実験も行っている。そこまで温度が下がれば、臓器の生理学的時間は停止し、「これを貯蔵しておく臓器バンクを検討できるようになるでしょう」。今のところ、ブランダッハー氏の研究対象は動物のみだが、人間の臓器に不凍タンパク質で処置する研究も、来年あたりには視野に入ってくるだろうと、氏は考えている。

セスタン氏は次の目標として、OrganExで処理した臓器をブタに移植して、生きた動物の中でどこまで機能するかを評価する予定だ。「慎重に事を進めなければなりません」と氏は言う。「社会に大きな影響を与えたり、社会を変えたりするものを扱うときには、憶測でものを言うべきではありませんから」

文=CONNIE CHANG/写真=MAX AGUILERA-HELLWEG/訳=北村京子(ナショナル ジオグラフィック日本版サイトで2022年11月12日公開)

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