いぶし銀・桐山清澄九段を将棋に導いた2人の「マスダ」
こころの玉手箱
母お手製、布の将棋盤
小学4年生の4月、私は単身で上京した。升田幸三先生(実力制第四代名人)の東京・中野の自宅に住み込み、内弟子としてプロ棋士を目指すためだ。写真の布の将棋盤は、その時に母が持たせてくれたもの。木の盤では駒を動かした時に音が出る。升田先生のご迷惑にならず、夜も将棋の勉強ができるようにと母がわざわざ作ってくれた。
私の実家は奈良県の下市町で、升田先生の奥様のふるさとが隣の大淀町。升田先生は夏になると避暑のため下市町の旅館に来られるのが恒例だった。「近所に将棋を指す子供がいる」と升田先生の耳に入り、その旅館で升田先生に一局教えていただいたのが小3の夏のことだった。
まだ幼く、プロ棋士を目指すことがどういうことか理解できてはいなかった。ただ、東京に行けば好きな将棋を思う存分指せる。実際、東京では将棋漬けの生活だった。プロ棋士養成機関である奨励会の予備校ともいえる初等科に入った。先輩には米長邦雄さんや中原誠さんがいた。小学校が終わると近くの将棋クラブに通った。プロ棋士の内弟子といえば何かと雑用をするものだが、升田先生から雑用を指示されたことはなかった。
升田先生にはよくしてもらったのだが、学校にはなじめなかった。関西弁が抜けず、言葉の問題で苦労した。ホームシックになり、母に毎晩、長距離電話で帰りたいと訴えた。母と升田先生が話し合い、7月に東京を離れることになった。私がプロ棋士を目指して上京することは、地元の新聞にも載るニュースになっていた。いきなり地元に戻るのは恥ずかしく、大阪に住んでいた叔母の元で1年ほど厄介になり、それから実家に帰ったのだった。
それでも私は将棋の道が諦められず、父に連れられて日本将棋連盟の関西本部へと向かった。その時に応対してくれたのが増田敏二先生(六段)で、升田先生のところを破門になったような自分を弟子として受け入れてくださった。升田先生と増田先生は、会えば食事をするなどつながりがあったそうで、そんなご縁のおかげもあっただろう。
違う道に進んでいても全くおかしくなかった自分が、もう一度、将棋に戻ってこられたのは幸運というほかない。2人の「マスダ」先生と両親に、心から感謝している。...