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仲間がくれたウイスキー 第一三共・中山譲治常勤顧問

こころの玉手箱

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なかやま・じょうじ 1950年大阪府生まれ。76年大阪大大学院修了。米国留学を経て、79年にサントリー(現サントリーホールディングス)入社。2002年に第一製薬(現第一三共)子会社社長。10年に第一三共社長。20年に現職。

残したサントリーウイスキー「響30年」

昨年の暮れ、自宅の戸棚の奥に黄金色の箱を見つけた。観音開きの箱を開けるとサントリーウイスキー「響30年」のボトル。琥珀(こはく)色の液体が3分の2ほど残っている。運良く蒸発せずに残ってくれていたことに嬉々(きき)としながら栓を開けると、華やかな薫りが漂う。そして、瞬く間に当時の記憶がよみがえって来た。

私と第一三共の関わりは2002年末、前身である第一製薬の子会社に移ったときからである。1979年にサントリーに入社し、酒の営業、財務、経営企画を経て96年に初めて医薬事業に携わった。当時のサントリーの医薬部門は300人ほど。創薬力にも定評がある少数精鋭で、互いに顔も見知っている家族のような存在だった。ただ、大型品の開発は少なく赤字続き。残念ながら02年に第一製薬に売却されることになった。

一つの家族がバラバラになっては創薬力が激減する――。事業本部長を務めていた私は社員300人に、第一製薬に移るように説得した。自身の進路も悩んでいた。会社は「サントリーに残るかは自分で決めろ」と言ってくれた。筋を通すため、私も一緒に移った。人生で最も大きな決断だった。

会社が変わってすぐに新しい親会社を愛せというのは難しい。自分たちのチームのため、そのことばかりを考えていた。しかし、06年、私は親会社の経営企画部長に異動になる。家族同然の仲間たちのためと思ってきたからか、辞令を聞き張りつめていたものが無くなった。その際、離れる私のために仲間たちが贈ってくれたのが冒頭の「響30年」である。

当時、深い感謝を感じながら、鬱屈とした気持ちを鎮めようと飲み始めたのを覚えている。ただ、しばらくして、グラスを置くことにした。親会社の経営企画部長として彼らを支えることができるではないか、と考えたからである。当時の年齢は56歳。定年まで4年間をやり終えて初めて飲む資格があるのではないか……。

それから思いがけず第一三共のトップになり現在に至るまでの15年間、このボトルの存在を忘れていた。果たして先日、飲みかけの「響30年」を一口飲むと軽いめまいとともに、当時語らった仲間たちのことを思い出した。思い出にふける時がやってきたと感じた。...

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