漫画家・松本零士さん 創作の旅、ビフテキが汽笛
食の履歴書

「学生の頃にもっとしっかり食べられていれば、身長があと10〜15センチは伸びたと思うんだ。兄弟たちはみな大きいしなあ」。冗談交じりの口調に食への執着がのぞく。「銀河鉄道999」「キャプテンハーロック」「宇宙戦艦ヤマト」……。デビューから60年近くもの間、多くのファンに夢を与え続けてきた漫画家は身にしみて感じている。何をするにも、どこに行っても、まずは食べるところから物事は始まるのだと。
戦後の食糧難の時代に育った。あらゆるものを食べた。山や川、田んぼでは鳥やどじょうなどを捕まえ、蜂の子を口にするため蜂の巣を狙った。学校帰りはメダカの丸のみ競争だ。
とにかく食うために
ウサギや鶏は自分で解体し、長じては関門海峡に潜って魚をつかまえた。「とにかく食うために暴れ回っていたガキでした」
福岡・久留米に生まれて兵庫・明石で暮らしていたが、父親がパイロットとして出征し、両親の実家がある愛媛・大洲に疎開。復員後に福岡・小倉に戻った。父親には戦後も飛ばないかと誘いがあったようだが、部下を失った自責の念からか首を縦に振らず、一家は野菜の行商で生計を立てる。生活は苦しかったが「野菜だけは一生分食べた」。
父親の生き方はその後の創作活動にも大きな影響を与えた。宇宙海賊のハーロックや、ヤマトの沖田十三艦長らにそのイメージが重なるとの指摘も多い。
「食わざれば力なし」父の教え
その父親からは「事を成そうと思えばその前に必ず飯を食え」と繰り返し教わった。父親は戦時中、朝食を食べずにバナナ1本で出撃して不時着。救助されるまで食べられずに心底後悔したのだという。「飯食わざれば力なし」。この言葉は心に刻み込まれた。
上京決意 出発前に食べた思い出の味
そんな幼少時代からの憧れはこんがりと焼けた「ビフテキ」。宇宙の本を読みふけっていた小学生の頃にはもう漫画家を志し、高校時代には原稿料をもらう身になってはいたが、ビフテキはおいそれと口にできない。卒業後に上京を決め、出発前に駅前で食べた一皿の味は今も忘れられない。
東京に向かう夜行列車。車窓から眺めた街の明かりが後方に過ぎ去っていく光景はまるで星の流れのようだった。故郷をたつ時の何とも言い表せない思いは銀河鉄道999の主人公・星野鉄郎そのものだった。
下宿のどんぶり飯、恩人の支え
上京後も貧しい生活は続く。生活費を切り詰め残りのほとんどは実家に送金。やせ細った身を支えたのが東京・本郷の4畳半の下宿「山越館」のどんぶり飯だった。お金がなくて質屋に通ったが、それを知った家主のおばあさんは「金がないのは恥じゃない。質屋に行かないで私に言いなさい。それから女には気をつけな」なんて説教しつつ、よく世話を焼いてくれた。
自伝的作品「男おいどん」の中華料理店のモデル「大同」の親父さんも大恩人だ。ある日、出前を取ったら頼んでいない鶏の空揚げが一緒に届いた。「店長がこれくらい食べてがんばらないとダメだって」。何度手を合わせたことか。
おごると誘ってきた友人が食べ終わって「割り勘にしよう」と言い出し、怒り心頭に。そのときも笑ってツケにしてくれた。腹が減っているからけんかも絶えない。「けんかする前に飯を食え」はこの頃に身をもって学んだ。
先輩・仲間たちとの食の縁
漫画家の先輩や仲間との食の縁も多い。謝らなければいけないのは、ちばてつやさん。洗わないまま押し入れに放り込んだ下着の猿股にキノコが生えて「サルマタケ」と名付けた。図鑑を調べると食用と書いてある。ちばさんが来たとき、ラーメンに入れて出した。「うまい。なかなかいける」と喜んでくれたが……。「すまん」の一言だ。
同年同月同日に生まれた石ノ森章太郎さん、赤塚不二夫さん、藤子不二雄の2人、「プロゴルファー織部金次郎」の高井研一郎さんらとは皆、交流があった。下宿に集まってすき焼きや闇鍋をしたりもした。
手塚治虫さんはおなかがすいているとふらりと現れる救世主だった。「おーい」と声がして下宿の窓から顔を出すと、満面の笑顔で「おごるからビフテキ食いに行こう」。大喜びで飛び出すと、銀座の「三笠会館」でごちそうしてくれた。
むちゃばかりしたが、おかげで体は丈夫。酒にも強い。中国では歓迎の乾杯でアルコール度数50を超えるマオタイを19杯飲んだ。
向こう見ずにみえる体験もまた漫画のネタになる。今もなお新作に挑み続ける好奇心の源には「おなかいっぱい食べて生き抜く」という衝動があるのかもしれない。
(河野俊)
〔NIKKEIプラス1 2012年12月29日付〕