室町期から続く志野流香道 家元が明かす香りの極意
二十世家元・蜂谷宗玄さん(こころの玉手箱)
伽羅の香木
私は1939年、室町時代から続く香道志野流の家に生まれた。初代の志野宗信は室町幕府の足利将軍家六代義教から八代義政に仕えた近臣で、聞香(もんこう)作法を制定。義政から拝領した名香「蘭奢待(らんじゃたい)」を保持した。私どもは500年以上その道統を継承してきた。
香道とは主に東南アジアで産出される沈水香木などを炷(た)き、香りを楽しむ日本の芸道である。香道では香りは「嗅ぐ」ではなく「聞く」という。主に香木の香りを聞いて鑑賞する聞香と、香りを聞き分ける組香(くみこう)の2つがある。
香りの文化は、推古天皇の時代、淡路島に香木が流れ着いたところから発展してきた。平安時代には貴族らが香に親しみ、各人が独自に 調合した香りの優劣を競う薫物合わせなどの宮廷遊戯も楽しまれた。
やがて鎌倉時代になって武士の時代が来ると、禅の教えを取り込み、茶道や能と並ぶ芸道として体系化されていく。初代の宗信は足利義政の命を受けて将軍家所有の名香を整理し、そうした過程の中で「六国五味」という香りの分類を定めた。江戸時代には富裕な商人にも広がって栄えたが、幕末から明治にかけて西洋化の波の中で衰退した。
その上、私が生まれたのは日中戦争のさなか、2年後には真珠湾攻撃が起きて日本が太平洋戦争に突き進んでいったころである。とても香道どころではない。物心がつく頃には私は戦火を逃れて名古屋から大阪の堺に疎開し、そこで小学校2年まで過ごした。特に香道の教えを受けるでもなく、わんぱくな少年時代だったと思う。
戦後、生家に戻ってあっけにとられた。家は一間しか残っていないようなありさま。代々伝わってきた物の中には焼失してしまったものもあった。だが、命をかけて守った物があった。伽羅(きゃら)の香木もその一つだ。
代表的な香木である沈香(じんこう)の中でも特に優れたもので、代々の家元が丁寧に使ってきた。父の十九世家元蜂谷宗由は戦争が起こったとき、真っ先にこれらの香木を守ろうと、安全なところに移したのだろう。
思えば室町の時代から、志野流は幾多の戦火をくぐり抜け、現代まで存続してきた。世の中が混沌としても香りを聞く文化は絶えなかった。私の香道人生は父と二人三脚で、志野流の立て直しと普及に向け、国内外を奔走することから始まった。...