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世界初のプログラマー、伯爵夫人エイダ・ラブレス

ナショナルジオグラフィック

1833年夏のとある月曜の夜、17歳のエイダ・バイロンは母アナベラとともに、英国の数学者チャールズ・バベッジの家を訪ねた。その12日前に上流社会の夜会でバベッジに会ったバイロン嬢は、彼が製作しているという機械の説明に心を奪われていた。

その機械は青銅と鋼鉄でできた手回し式の装置で、何層もの歯車と、ハンマー状の金属製のアームと、番号のついた数千個の円盤を使い、自動的に数式を解くことができた。バベッジが「階差機関(Difference Engine)」と呼ぶこの機械は未完成で、高さ80cmほどの小さな試作機しかできていなかったが、ガラガラと音を立てて回転し、難しい数式の答えをはじき出した。

バベッジは、階差機関が完成すれば、もっと複雑な問題も解けると信じていた。バベッジによる試作機の実演は、奇跡を起こす魔術のようで、チャールズ・ダーウィンやチャールズ・ディケンズをはじめとするロンドンの知識人と科学界を驚かせた。

しかしエイダにとっては、階差機関は魔術ではなく革新的な機械だった。1833年の運命の晩にこの機械を見たとき、彼女はすぐにそのしくみを理解した。また41歳のバベッジも、わずか17歳のエイダの中に自分と同等の知性を見出した。彼女はその後20年以上にわたり、バベッジの機械に対する理解と洞察力の深さを立証していくことになる。

知的な母と奔放な詩人の父

エイダ・ラブレスは1815年12月10日に、オーガスタ・エイダ・バイロンとして、ビクトリア朝の英国上流社会に生まれた。母親のアナベラ・バイロンは、この世代で教育を受けることができた数少ない女性の1人だった。

アナベラは知への愛、特に数学への愛を娘に伝え、幼いエイダのために有名な数学者を家庭教師として雇い入れた。適当な家庭教師が見つからないときには、みずから娘を指導した。

アナベラが娘に最高の教育を受けさせたのは、単純に知を追求させようとしたからではない。あふれる想像力を際限なく発揮するようになったら、娘が父親のようになるのではないかと心配していたのだ。

エイダの父親であるジョージ・ゴードン・バイロンは、バイロン卿として世に知られる詩人だった。彼は詩人として名を馳せた反面、放縦で複雑な生活ぶりで悪名高かった。ある愛人はバイロンを、「向こう見ずな悪い男、知れば危険」と評している。ロマン派時代の有名人として、彼が依存症と闘い、心を病んでいたことは誰の目にも明らかだった。

アナベラとバイロンの結婚生活は短期間で終わったが、エイダが生まれたとき、バイロンは子どもが男児ではなかったことに激怒したと伝えられている。1816年1月、エイダが生まれて5週間も経たない朝、アナベラは赤ん坊を抱いて両親のカントリーハウスへと帰って行った。バイロンとその影響から逃れるためだった。

一方バイロンは、それから数カ月もしないうちに英国を離れた。彼の唯一の嫡出子であるエイダは、父親と会うことなく育った。バイロンはエイダが8歳のときに死去した。

論文より詳しい「訳注」

エイダが父親の破滅的な性格を受け継ぐことを恐れたアナベラは、娘の分析的な側面を伸ばすように心がけて育てていった。その甲斐あって、エイダは子どもの頃から数学を愛し、その情熱は終生続くことになった。

エイダが10代後半になる頃には、アナベラは、娘が求婚者候補のエリートよりも、科学者や数学者と話すことに興味を持っていると苦笑まじりに語っている。そんなエイダだったが、1835年に英国貴族のウィリアム・キングと結婚し、まもなく夫がラブレス伯爵となったことで、ラブレス伯爵夫人の称号が与えられた。2人には馬好きという共通点があり、夫はエイダの知性と知識欲を認めていたようだ。

しかし、エイダにとって最も実りある関係は、チャールズ・バベッジとの生涯にわたる友情だった。

1834年のある晩、バベッジはエイダとアナベラに、自分が考えている別の発明のアイディアを説明した。彼が前年にエイダに実演して見せた手回し式の階差機関は未完成だったが、バベッジはすでに、より複雑で高性能な機械を思い描いていた。それは多数の回転する円盤からなり、蒸気を動力とする、機関車と同じくらいの大きさの機械だった。

バベッジはこの機械を「解析機関(Analytical Engine)」と呼び、単純な計算以上のことをさせようとしていた。彼はこれを「自分の尻尾を食べる」と表現した。解析した結果を続けてほかの数式の計算に利用できるようにしようとしたのだ。つまり、この機械は単なる「計算機」ではなく、「コンピューター」だった。

バベッジの発明とその可能性に魅せられたエイダは、バベッジが機械の回路図を作り上げていく間、密に連絡を取り合った。1842年、イタリアの数学者で、のちに首相となるルイージ・フェデリコ・メナブレアが、バベッジが提案した機械に関する論文を発表すると、エイダは英国内での支持を集めるために論文を英訳した。翻訳した論文には「A.A.L.」とだけ署名した。

エイダは翻訳した論文と一緒に、解析機関に関する自身の注釈も発表した。この「訳注」は、翻訳したメナブレアの論文よりも分量が多く、文字数は2倍以上あった。そして、論文よりもはるかに詳細に、仮説の機械のしくみが説明されていた。その中身はこんなふうだった。

エイダは、この機械はジャカード織機と似たしくみで機能すると説明した。ジャカード織機は19世紀の繊維業界に革命をもたらした機械で、パンチカードを使って織物の模様や絵を織る作業を部分的に自動化した。従来は人間が行っていた糸の操作を、パンチカード上の穴の有無によって織機に自動的に指示できるようになり、短時間で複雑なデザインの織物が織れるようになった。

パンチカードは一種のバイナリーコード(0か1かのような2進数データへの指示変換)であり、「解析機関」もパンチカードで動く。エイダは「ジャカード織機が花や葉の模様を織るように、解析機関は代数的なパターンを織る」と記している。

彼女の訳注の中で最も大きな影響を及ぼしたのは、「訳注G」と呼ばれる部分だ。彼女はここで、数学のさまざまな分野で使われる「ベルヌーイ数」を解析機関に計算させるには、どのようにパンチカードに命令を書き込めばいいかを詳しく記述した。存在すらせず、記述によってしか知られていない機械のために、エイダは最初のコンピュータープログラムを書いたのだ。

コンピューティングは「詩的な科学」だった

エイダはバベッジの機械を、複雑な方程式を計算するだけでなく、そのはるか先にあるものと見なしていた。彼女は訳注で、音符や文字など、数字で表現できるものはすべて、こうした機械で操作できると主張している。

彼女は、人間がそうした機械と協働する時代を予見していた。バベッジ自身は、自分の機械の有用性は計算だけにとどまると考えていたが、エイダの洞察はそれをはるかに超えていた。

母譲りの分析的な厳密さと、父譲りの気まぐれとのバランスを取りながら、エイダは研究を進めた。彼女は機械化された未来の可能性を詩的に描き出す一方で、仮想のコンピューターが機能するしくみをこと細かに解説した。彼女の数学的知性と創造性は、のちにコンピューティングとして知られるようになる抽象的な分野を思い描くことを可能にした。彼女は自身の作品を「詩的な科学」と呼んだ。

1852年、エイダは子宮がんで36歳の若さでこの世を去った。彼女が「解析機関」の完成を見ることはなかったが、実を言うと、この機械は結局実現しなかった。バベッジは、1871年に死去するまでに、解析機関のほんの一部分しか製作できなかったのだ。しかし、エイダが最初のコンピュータープログラムを書いてから100年以上たった1979年に、世界中の交通機関や軍事システムで使われているプログラミング言語が、彼女にちなんで「エイダ」と名づけられている。

文=Katie Thornton/訳=三枝小夜子(ナショナル ジオグラフィック日本版サイトで2022年4月8日公開)

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