日台関係に揺れた画家、塩月桃甫の記録映画

塩月桃甫(しおつき・とうほ、1886~1954年)は日本統治下の台湾で西洋美術を広め、現地美術の近代化に貢献した日本人画家である。日本政府が派遣した教育者でありながら、台湾原住民の文化や風習に深い共感を示し、抗日蜂起が起きたときには武力鎮圧を批判するような絵も描いた。画家の実像に迫ったドキュメンタリー映画が完成した。
1921年に台湾に渡った桃甫は学校で油絵を教え、台湾美術展覧会の創設に力を尽くした。画家としては台湾の風景や風俗、特に原住民に取材した絵画を精力的に制作した。台湾美術界の重鎮として名をはせたが、敗戦によって日本に引き揚げた。作品の多くが消失していることもあり、日本ではあまり知られていない。
映画は日本と台湾でゆかりの場所を訪ねながら、桃甫の教え子や孫、台湾美術の研究者らにインタビューを重ねる。台湾時代の教え子は「多くの先生が国民服を着ている中で、桃甫だけがスーツにネクタイ姿だった」と振り返る。原住民が蜂起した30年の霧社事件の後、日本軍による武力鎮圧の中で逃げ惑う母子の姿を描いたとみられる作品「母」も紹介。絵からは原住民への同情的なまなざしが感じられる。
映画の脚本・監督を務めたのは美術家の小松孝英だ。台湾を訪れたとき、今もなお、現地の人々に桃甫が親しまれていることを知る。同じ宮崎県出身の美術家という縁もあり、興味を覚えた。制作を通じ「政府側の人間という立場と、原住民らへの愛情との間で揺れながらも、桃甫は自由を求め続けた」と感じた。「あの時代に多様性を重んじ、原住民を尊重した。その業績がもっと知られてほしい」と話す。
映画は宮崎県や福岡県で上映。今後も各種団体の要望に応じて上演会を企画する。
(岩本文枝)