「入眠用朗読コンテンツ」が米国で流行 旅物語が人気
ナショナルジオグラフィック

「雪を頂くアンデス山脈の東斜面。その奥深くには、人の手がほとんど入っていない神秘的な地域があります…」
ベッドで横になり、目を閉じると、心地良い声のナレーションが聞こえてくる。
「今夜、私たちが探訪するのは、熱帯のジャングルと高地の草原が完璧に調和した、まるで時間の概念が存在しないかのような場所です」
ちゃんと聴いているだろうか? どちらでも構わない。この物語の目的はただ一つ、聴いている人を眠らせることだからだ。
米疾病対策センター(CDC)によれば、米国では約7000万人が慢性的な睡眠の問題に悩まされている。その対策として、多くの大人が子ども時代の定番に回帰している。眠れない夜に聞かせてくれたお話、ベッドタイムストーリーだ。冒頭で紹介したのは、サブスクリプション(定額課金)型アプリ「Calm」が提供する45分の物語からの抜粋だ。
夜のリラクゼーションを手助けしてくれる瞑想(めいそう)アプリは2500以上ある。ポッドキャスト「Sleep Cove」や、YouTubeチャンネル「Soothing Pod」など、大人を深い眠りに誘うことだけを目的とした動画や音声サービスも数多く存在する。
これらのベッドタイムストーリーは子どもに聞かせるものとは違う。大人向けの物語はより長く、より描写的で、紆余(うよ)曲折があり、子ども向けの本にしばしば見られる道徳的な教訓がない傾向にある。カナダ出身の歌手マイケル・ブーブレ氏や、英俳優イドリス・エルバ氏などの著名人も心安らぐ物語に声を貸している。
大人向けのベッドタイムストーリーで際立っているジャンルの一つが、旅の物語だ。Calmに300あるベッドタイムストーリー(聴取回数は合わせて4億5000万回以上)のうち旅行、特に冒険旅行に関するものが100近くを占める。1000万回以上ダウンロードされているアプリ「Breethe」が用意しているベッドタイムストーリーも約45%は旅行関連であり、2022年9月の時点でトップ10入りしているベッドタイムストーリーのうち約半分が旅行をテーマにした作品だ。
なぜ旅の物語は、これほどよく人を眠らせることができるのだろう?
列車に乗って眠りの国へ
一般的に、旅をテーマにしたベッドタイムストーリーでは、旅が音声で再現される。多くの場合、現在形の時制で語られるため、まるでナレーターと一緒にその場にいるような気分になれる。英国南西部バースの温泉で過ごす1日や、遠く離れた山岳地帯にあるブータン王国への旅。あるいは、イメージを膨らませながらノルウェーでオーロラを「見る」旅が楽しめる。
ナイル川のクルーズ、スリランカへの船旅、サンティアゴ・デ・コンポステーラへの過酷な巡礼、トルコのカッパドキアを周遊する気球の旅、米国の旧国道ルート66のドライブ旅行などにも参加できる。語られる内容の大部分は風景描写で、海の波音や、線路を走る列車の音、静かな音楽などの環境音が時折入る。

特に、列車の旅は就寝用としての魅力があるようだ。瞑想・入眠アプリ「Headspace」やCalm、Breetheは列車をテーマにしたコンテンツを着実に増やしている。オリエント急行やシベリア鉄道の旅もある。Headspaceで人気を博している「スロー・トレイン」という物語は、背後で聞こえる列車の音と声による描写を定期的に変えており、Headspaceのベッドタイムストーリーのトップ5に常にランクインしている。
「ベッドタイムストーリーには動きが必要です。動きがないと退屈で、聴いている人はそわそわしてしまいます」と、米オレゴン大学の民俗・公共文化プログラムの責任者で、古代から現代までの口承を専門とするマーサ・ベイレス教授は話す。「ただし、危険を感じるような動きではなく、心安らぐものでなければいけません。現代で言えば、列車の動きほどぴったりのものが他にあるでしょうか?」
列車は常に前進しながら、優しく五感を刺激する。列車の旅は「自分で意思決定する必要がありません」とベイレス氏は話す。「列車は睡眠に最適な乗り物です。ただ乗っていれば目的地に到着しますし、優しい揺れやリズミカルな音といった、昔ながらの安心な乗り物でくつろぐ感覚を楽しむことができます」
空の旅ではそうはいかないとベイレス氏は指摘する。「飛行機の狭い座席に押し込まれ、前の席の人が背もたれを倒してきた状態でどうにか眠ろうと試みるところを想像すればわかります!」
なぜ安眠の助けになるのか
米ジョンズ・ホプキンズ睡眠健康センターの副医長を務める神経科医のレイチェル・サラス氏によれば、ベッドタイムストーリーが安眠の助けになる人もいる。米睡眠医学会によれば、安眠は消化から認知能力に至るまで、体のあらゆる機能の調整を改善するという。
ベッドタイムストーリーは、心配事やToDoリスト、不安を忘れるための良い気晴らしになる点で効果的だ。苦悩を和らげてくれるような、前向きで明るい(ただし、あまり刺激的でない)物語が選ばれる傾向にある。
私たちの脳が旅をテーマにしたベッドタイムストーリーで落ち着く理由の一つは「ミラーニューロン」かもしれないとサラス氏は話す。ミラーニューロンは最初にマカクザルで発見された神経細胞で、ある動きを自らするときだけでなく、その動きを他者がするのをただ見ているときにも反応する。
サラス氏によれば、ミラーニューロンは自分の体験と他者の体験を結び付けている可能性があるという。例えば、列車の旅の物語は、たとえ自分で体験したこととは違っても、自分が過去にした旅への郷愁を誘う可能性がある。なじみがあり、理想化されたものに感じる心地良さは、リラックスや睡眠の助けになる。さらに、列車が線路を走る音は、眠りを誘うホワイトノイズのようなものだとサラス氏は指摘する。
旅をテーマにしたベッドタイムストーリーの魅力は、新たな冒険への扉が開かれることだという人もいるだろう。それではむしろ目が覚めてしまうと思うかもしれないが、冒険の世界を安全に見られるという心地よさをもたらしてくれる。
「神経学的には、旅をして新しい場所を見るだけでなく、つながることが重要です。私たちはもともと社会的な生き物です。私たちは家族や友人から離れ、自由のない時間を過ごしてきました。たとえ旅行好きでなくても、以前はレストランに行ったり、新しいことに挑戦したりする自由がありました」とサラス氏は話す。
あるいは、単純に外界の光やノイズを取り除くことで、内なる世界、つまり想像力が優位になるのかもしれない。ベイレス氏によれば、夜に物語を聞かせる習慣は古くから存在し、「文学と同じくらい古い」歴史があるという。「ある意味、ベッドタイムストーリーを聴いているとき、私たちは人類の文化の夜明けに思いをはせているのです」
「旅をテーマにしたベッドタイムストーリーでは、ほとんどの場合、大したことは起きません」とベイレス氏は話す。「ベッドタイムストーリーは冒険の合間の小休止。睡眠も同じです」
文=HILLARY RICHARD/訳=米井香織(ナショナル ジオグラフィック日本版サイトで2022年9月26日公開)
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