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伊藤忠商事、働き方改革で出生率2倍 生産性も向上

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日経ビジネス電子版
「社内出生率は1.97」。4月、伊藤忠商事は働き方改革の成果の一つとして女性社員の合計特殊出生率(1人の女性が一生のうちに産む子供の平均数)を公表した。「朝型勤務」の導入が転機となり、出生率が急上昇したという驚きの内容だ。企業が成長を追求しながらも少子化対策に貢献できることを示している。

「お先に失礼いたします」。午後4時過ぎ、伊藤忠商事の調達関連の部署で働く石井舞さん(仮名、40代)は、チームのメンバーに業務終了を伝え、会社を出る。20分電車に揺られて向かう先は、自宅の最寄り駅からほど近い保育園。子どもを引き取ると、一緒にスーパーに行き、夕食の材料を買って帰宅する。

6時に子どもと一緒に夕食を取り、その後お風呂に入る。8時には同じ会社で働く夫の拓海さん(仮名、44)が帰ってきた。拓海さんが子どもに数冊、絵本を読み聞かせすると、子どもは布団に入り、眠りにつく。

早く仕事を切り上げ帰宅する舞さんだが、労働時間は1日8時間以上で、フルタイム正社員だ。働く時間はしっかり確保している。舞さんはいつ働いているのか。

その秘密は伊藤忠が取り入れている、午前5時から8時までに就業をスタートする代わりに、午後8時以降の残業を原則禁止にする「朝型勤務」にある。

午前6時に始める「残業」

舞さんが仕事を始めるのは午前6時。子どもが1歳の時に復職してからは、在宅勤務日を除く平日、拓海さんに子どもの朝の世話を任せ、自分は朝型勤務を続けている。夜に残業をしない分、コアタイムが始まる午前9時までの3時間が舞さんにとっての「残業時間」だ。舞さんは「子どもの起きる前から仕事を始めて、子どもと過ごす時間を確保する。それを可能にしてくれる朝型勤務は自分にとても合っている」と話す。

朝型勤務導入前は、午後11時くらいまで仕事をしていた独身時代の舞さん。9時以降に「作戦会議」と称してチームで集まることも多かった。「出産したら今の部署ではもう働けない」「伊藤忠に私の居場所はあるのか」と考えることもあった。だがその後、会社は子どもがいても堂々と帰れる環境を用意した。

今年4月、伊藤忠はこの朝型勤務にまつわる「ある論争」を巻き起こす。

女性社員の合計特殊出生率は今後の当社の女性活躍推進においても重要指標である──。伊藤忠は「1.97」という数値を公表した。2021年度の同社社員の出生率だ。この年の日本の出生率1.30を大きく上回っていた。

だがわずか10年前、同社の出生率は1.0にも届いていなかった。海外出張・赴任は当たり前でハードワークが求められる総合商社。女性が仕事をしながら子どもを産み育てるのは難しく、女性に活躍し続けてもらうことは長年の課題だった。

10年度から様々な施策で働く環境を整備してきた中で「何が有効だったか」を検証するため、過去に遡って女性正社員を分母にした社内出生率を算出した。すると、石井さんを含め、多くの子育て社員が活用する朝型勤務を取り入れたのを機に、出生率が急上昇したことが明らかになったのだ。

出生率の公表には賛否

働き方改革は出生率の向上にもつながる──。伊藤忠は仕事と育児の両立支援を推進した成果の一つとしてこれを公表した。しかし「出産というプライベートな事柄に企業は関与すべきではない」「産めない人、産まないことを選択した人へのプレッシャーだ」とSNS(交流サイト)を中心に批判の声が上がる。

投げかけられた疑問は大きく2つあった。一つは、出生率を女性活躍の度合いを示す指標として扱うのは妥当なのかという点。伊藤忠は成果を検証するに当たり、職場風土の変化を表すデータの一つとして出生率を活用したという。

もう一つのポイントは、数値を対外的に公表することの是非である。女性活躍の施策の効果測定が目的であれば、人事部など一部の部署や、経営上層部だけに数字の共有をとどめておく選択肢もあったはずだ。

伊藤忠側はどのように捉えているのか。社外取締役であり、同社の女性活躍推進委員会の委員長も務める元厚生労働事務次官の村木厚子氏は、様々な意見があるのは承知していると前置きした上で、「何人子どもを持てているかという実際のデータは非常に重要。子どもが欲しい人が産める会社になっているか否かを判断する材料になる」と話す。

その上でこう付け加える。「多くの女性社員は妊娠時、『会社に迷惑をかける』『上司に嫌な顔をされたらどうしよう』と悩む。出生率の公表を通じ、会社が出産・子育てに前向きであると意思表示すれば、これらの悩みも払拭できる。数字の公表にはプラスの側面もある」

出産女性のほぼ全員が復職

つまり出生率の公表は「子どもを産まないといけない」という強要ではなく、働く時間などに制約を持つ社員にも配慮できる職場づくりに本気で取り組もうとしている会社からのメッセージであり、子どもを育てながら働くのを全面的に応援する姿勢の表れと捉えるべきだとの考えだ。

実際、伊藤忠は出生率を引き上げたくて働き方改革に取り組んだのではない。狙いはあくまでも、手塩にかけて育てた女性社員が長く働きやすい職場づくりだった。会社の生産性の改善や成長を追い求める上での取り組みの一つから、副次的な効果として出生率の上昇が起きたということだ。

就業時間前の朝型勤務は夜の残業とは異なり、終わりの時間がしっかり決まっている。子育て中の社員にとって、保育園の迎えや子どもの生活リズムに沿って仕事の計画が立てやすいというメリットがある。

村木氏によれば、実際に朝型勤務を導入して以降、出産後の女性はほぼ全員復職するようになったという。女性社員の自己都合退職率にも変化がみられ、21年度は1.5%まで下がった。同社が出産を経て職場復帰した社員に実施したアンケートで「働きながら子育てできると思った理由」を尋ねたところ、最も多かった回答が「職場全体の働き方」だった。

朝型勤務は生産性向上に寄与

朝型勤務は男性社員や子どもを持たない女性社員にも評判がいい。なぜなら労働時間が短くなるからだ。朝型勤務の終了時刻に合わせて仕事を終わらせようと、自然と効率を重視した働き方になる。だらだら働くことが少なくなり、生産性の高い働き方が実現できるようになる。

伊藤忠で働くある40代男性社員は「朝は早くなったが、夕方以降の残業がなくなり、子どもと過ごす時間が増えた」と喜ぶ。また30代独身女性からは「夜の時間をオンラインの語学講座を受ける、ヨガに行くといった自己研さんに充てられるようになった」との声が上がった。

既婚・未婚の別や子どもの有無にかかわらず、どんな属性の社員でも働きやすい職場環境を整備することが経営にプラスの効果をもたらしている。下のグラフは伊藤忠が公表した労働生産性(10年度=1.0)の推移だ。

景気変動の影響なども勘案する必要があるため働き方改革だけの効果とは言えないが、会社側は「改革を行う場合には、経営者の改革の効果に対する確たる自信が必要になる。業績との関係は重要なポイント」としている。結果的に子どもを持ちたいと考える社員の希望をかなえた働き方改革は、企業にも実利をもたらしている。

根強い男女の役割分担意識

伊藤忠が働き方改革を急ぐのは、若年層を中心に、働き方に対する考え方が大きく変わっている点も関係している。日本社会全体の傾向と同様に、同社でも共働きを選択する男性社員が増えており、社内結婚も多い。00年度には20代で29%、30代で13%だった男性社員の共働き比率は、今やそれぞれ90%、63%に達している。

結婚し、子どもを持っても夫婦二人で働きながら育てた方が、互いのキャリアを尊重し合えるし、経済面での不安も少ないと考える働き手が増えている。彼らの希望に応えるためには、男女を問わず家事・育児に積極的に関われる環境が必要だ。さもなければ「共働きには向かない会社」とのレッテルを貼られ、優秀な人材にそっぽを向かれてしまいかねない。

世界を見渡すと、フランスやスウェーデンのように女性の労働参加率と出生率が共に日本より高い国は少なくない。このことは、日本は働きながら産み育てるための環境整備において、なお改善の余地があることを示している。

「日本の政府や企業の出産・育児支援制度は世界的にみてもそれほど劣っていない。なのに変われないのは、男女の役割分担意識や規範といったものが根強く影響しているからだ」。労働経済学の大家で、日本の雇用制度を専門とする樋口美雄・労働政策研究・研修機構理事長は指摘する。

男女の役割分担意識とは「男性は外で仕事、女性は家庭で家事・育児」というように、性別を理由に役割を固定的に分ける考え方を指す。こうした意識が強いと、家事や子育ての負担が妻の側に重くのしかかる。

樋口氏は、労働人口の減少と少子化の双方に対処するには「男性の働き方を変えていくしかない」と考える。その際、これまでの残業時間の削減、女性活躍推進といったアプローチに続けて、「男女の性別役割意識の解消」を推し進めなければならないステージに日本は来ている。

試金石になりそうなのが、10月に施行された「改正育児・介護休業法」だ。通常の育児休業に加えて、「産後パパ育休」と呼ばれる、出産後8週間以内に夫が4週間までの休みを取れる新制度が創設された。育児休業給付金や社会保険料の免除などによって、賃金の最大8割を実質保障。休業中の経済負担にも配慮されている。

男性の育児休業取得を推進することで、多くの家庭で女性に偏りがちな家事・育児の負担を軽減し、女性の就業継続につなげるのが狙いだ。

求められる企業の「推進力」

第1子出産後、夫が家事・育児に関わる時間が長いほど、第2子が生まれやすい傾向があることも分かっている。男性の働き方改革は、共働き世帯が主流になる環境下において、女性の就業促進のみならず、出生率向上にも道を開くカギとなりそうだ。

国立社会保障・人口問題研究所が15年に実施した調査によると、結婚した夫婦が考える理想的な子どもの数(平均理想子ども数)は2.32人。だが実際に持つつもりの子どもの数(平均予定子ども数)は2.01人と、理想の子ども数との間には乖離(かいり)がある。経済的な負担増や、高齢出産への不安、育児に対する肉体的・精神的な負担が、本来希望する子どもの数を下回る出産計画につながっていると考えられる。

樋口氏は「今の日本では、子どもを持つことを負担に感じたり、苦労が大きいものと捉えたりする風潮が強まっている」と話す。それだけに、働く子育て世代の存在を前提とした配慮が不可欠だ。逆に言えば、適切な配慮があれば、結婚した夫婦が複数の子どもをもうけるハードルはぐっと下がる。

ここでいう配慮とは、経済的な支援のみを指すのではない。小さい子どもを抱えながら働く社員の苦労や不安を解消する制度や、彼らを支える職場全体の雰囲気作りをも含む。一朝一夕で完成するものではないだけに企業側の強い推進力がいる。だが、それは企業に一方的に犠牲を強いるものではなく、成長の追求と相反しない道筋があることを伊藤忠の事例は教えてくれている。

「きちんとした収入と働き方が得られれば、おのずと子どもの数は増える。伊藤忠はそのことを身をもって示した」。村木氏は、企業が少子化対策に向けてできることは、まだまだ多いと話す。

(日経ビジネス 武田安恵)

[日経ビジネス電子版 2022年10月26日の記事を再構成]

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