「若草物語」著者オルコット 本当に書きたかった小説

南北戦争時代の米国マサチューセッツ州を舞台に、マーチ家の4姉妹、メグ、ジョー、ベス、エイミーを描いた『若草物語(Little Women)』。1868年に出版された心温まるこの小説は推定1000万部を売り上げ、50カ国語に翻訳された。また、2つの続編が書かれ、舞台、多数の映画、10以上のテレビ番組、ブロードウエーミュージカル、オペラなどにもなっている。
著者ルイーザ・メイ・オルコットは米国で最も売れ、最も愛される作家の一人となった。「子どもの友」として知られるようになり、生涯にわたって小説を書き続けたが、初期にはかなり作風の異なる意外な作品もあった。
貧しくとも知性を育んだ環境
オルコットは1832年、ペンシルベニア州フィラデルフィア近郊に4人娘の次女として生まれた。知識階級だが、経済的には苦しい家庭だった。父親のブロンソン・オルコットは教育改革者で、自己修養や普遍的な兄弟愛、自然との融合を信じる超絶主義と呼ばれる思想を信奉していた。
理想は高いものの現実には疎かったブロンソンは、一家が食べるのに困らないような収入を得られず、家庭を守っていたのは母アビゲイルだった。奴隷制度の廃止を支持し(オルコット夫妻は奴隷解放に取り組む秘密組織「地下鉄道」とともに、逃亡してきた奴隷をかくまっていたとみられる)、女性の権利を擁護する人物だった。
貧しかったにもかかわらず、オルコットは豊かな知性を育むことのできる子ども時代を過ごした。8歳の頃、一家はマサチューセッツ州コンコードへ移り住む。そこでオルコットは、父の友人であり超絶論者の代表格であるヘンリー・デビッド・ソローとラルフ・ウォルドー・エマーソンという素晴らしい指導者に出会う。
オルコットはソローが開いた学校に通ったが、そこでの授業といえば、この偉大なナチュラリストと一緒に森を散策することだったのかもしれない。また、隣に住んでいたエマーソンは、自宅の書庫を開放してくれた。オルコット自身は現実主義者だったため、超絶主義の高尚さを完全に支持することはなかったが、自立と個性を重視する考え方には影響を受けた。
オルコットは個人の自由を重んじており、女性を家庭に閉じこめようとする当時の考え方に抵抗した。一方で、困窮する家族の面倒を生涯にわたってみることになった。彼女は父親宛ての手紙で、作家としての目標は「オルコット家に生まれながらも自分を養うことができる」と証明することだと書いたこともある。
20代前半の頃にはすでに匿名やペンネームでの執筆活動を行っていた。その後、1862年、30歳のときに南北戦争で看護師として従軍した後、『病院のスケッチ』を書いて翌年に出版した。
出版を担当した一人トーマス・ナイルズはこの本を高く評価し、1867年、少女向けの小説を書かないかと誘った。オルコットは同時に若者向けの雑誌『メリーの博物館(Merrie's Museum)』の編集を依頼されていた。いずれの仕事も引き受けたオルコットは、現在知られているような、より大人向けの路線を捨てることとなった。


書きたい物語vs求められる物語
オルコットは当初、後に『若草物語』と名付けられるこの小説を書くのに自分はふさわしくないと感じていた。姉のアンナ、妹のエリザベスとメイという3人の姉妹以外、「女の子が好きではないし、知っている女の子も少ない」と日記に書いている。
1868年8月、書き上がった原稿を読んだ彼女とナイルズは、最初の十数章を退屈と感じた。しかし、その後の校正版についてオルコットはこう書いた。「思ったよりもよく書けている。全くもって華に欠けるが、素朴で真実味がある。なぜなら、私たちはそのほとんどを実際に体験したから」
物語は南北戦争を背景に、賢いメグ(姉のアンナがモデル)、反抗的なジョー(オルコットの分身)、優しいベス(エリザベス)、気ままなエイミー(メイ)の4姉妹が、冒険や愛、居場所を求めて成長していく1年間を描く。愛情に満ちた母親のマーミーがいてくれるものの、父親は牧師として従軍しており家を離れている。物語が進むにつれ、三女のベスは若くして亡くなり(オルコットの妹エリザベスも実際に猩紅熱で亡くなっている)、他の3人の姉妹たちもそれぞれの道を歩むことになる。メグは家庭、ジョーは執筆と教育、そしてエイミーは芸術の道だ。
『若草物語』の初版は、現在よりも短いものだった。2週間で2000部が売り切れたため、出版社はオルコットに第2部の執筆を依頼し、これらがまとめられて現在の1冊の本になった。オルコットは恋愛や結婚について読者たちとは異なる考えを持っていた。ジョーを自分と同じように未婚にしておきたかったが、出版社や読者はジョーが金持ちのローリー・ローレンスと結婚することを熱望。オルコットは『若草物語』の第2部で譲歩したものの、多くの読者が望んでいたのとは違う結末を用意した。ジョーは年上のベア教授と結婚、妹のエイミーがローリーと結婚するのだ。
オルコットが結婚生活に否定的だったのは、経済的困難が両親の結婚生活に負担をかけたことも影響しているかもしれない。作中のジョーは、おばの遺産と執筆活動によって経済的な自由を得る。そして、1834年にオルコットの父がそうしたように、夫と協力して男子校を設立する。
マーチ家の少女たちのその後をもっと知りたいという世間の声に押され、オルコットは2つの続編を書いた。『第三若草物語(Little Men)』(1871年)は男子校の生徒たちの物語、『第四若草物語(Jo's Boys)』(1886年)は3部作の最後の作品で、生徒たちが大人になってからの物語だ。


発掘される『若草物語』以外の作品
小説の成功によってオルコットは家族を養えるだけの収入を得たものの、「子どものためのつまらない訓話」(と本人が評した)を書くという役割は、フェミニストとしての彼女にとって窮屈なものだった。1879年、オルコットは投票権を求めるコンコードの女性たちの団体に参加、条件付きながら初めて選挙権を行使した。その後も生涯、女性の完全な参政権を求めて活動している。
「彼女は常に偉大な小説を書くことを熱望し、自分が成功したとは思っていませんでした」と、『若草物語』に時代背景の注釈を加えた 『Little Women: An Annotated Edition』の編集者である米ノースカロライナ大学シャーロット校のダニエル・シーリー氏は言う。
1940年代、ニューヨークで古書店を営むマドリン・スターンとレオナ・ロステンバーグが、オルコットが書いたペンネームや匿名での文章を発見した。その結果、オルコットは20歳で初めて散文小説を発表した1852年から1888年に亡くなるまでの間に、約210編に及ぶ詩やスケッチ、物語、連載などを書き、約40の雑誌類に掲載されていたことがわかった。
オルコットはまた、『若草物語』を書く前の10年間に、A.M.バーナードの名で約30点のゴシック・スリラー小説を発表していた。これらの作品は、彼女が「血と雷」の物語と呼んだように、情熱と復讐に満ちたものだ。「私が本来書きたいのは、ゾッとするようなものだと思う」と友人に打ち明けている。
1866年、オルコットは『愛の果ての物語(A Long Fatal Love Chase)』を執筆した。冒頭でヒロインが悪魔と契約を交わす、愛と執着の物語だ。「1年の自由のためなら、私は喜んで魂をサタンに売ってしまうような気がしている」という語りが登場する。
当時はボツとなったこの小説は、1995年にようやく出版され、ベストセラーとなった。オルコットは『若草物語』の作者以上の存在として認識されるようになっているのだ。「彼女の作品群は、今やアメリカ文学の規範として確立されています」。シーリー氏はそう締めくくる。「作家としての評価は高まるばかりです」
(文 AMARANTA SBARDELLA、訳 桜木敬子、日経ナショナル ジオグラフィック社)
[ナショナル ジオグラフィック 日本版サイト 2021年12月16日付]
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