ローマ目指したバイキング 北欧の民は地中海にも進出

9世紀、バイキングは地中海にも攻め入っていた。
13世紀のアイスランドの年代記作家スノッリ・ストゥルルソンがノルウェー王朝の歴史について執筆した『ヘイムスクリングラ』は、8世紀から11世紀にかけて各地へ勢力を広げたバイキングに関する重要な資料だ。バイキングは当時、英国からグリーンランド、果ては北米まで足を延ばした。彼らが成功したのは、よく知られた残虐さはもちろんだが、高い航海技術によるところも大きかった。
バイキングはヨーロッパの河川や大西洋岸を航行しただけではなかった。ストゥルルソンが「ジブラルタル海峡を通ってエルサレムの地まで続く、あの大きな海」と表現した地中海へも、進出していたのだ。

バイキングの遠征については数多くの証拠が残されている。イングランドやアイルランド、ロシアに築いた植民地や、今日のイスタンブールやバグダッドに至る交易ルートについての証拠だ。しかし、彼らの地中海侵攻についてはあまり知られていない。
数少ない資料によると、恐ろしいリーダーが率いる船団が仕掛けた大胆不敵な襲撃は、イスラム王朝時代のスペインのほか、当時のフランスやイタリアをも恐怖に陥れたという。バイキングが南を目指した理由は、彼らにとって非常に魅力的な街を奪うことにあったのかもしれない。ローマだ。

勢力範囲を広げるバイキング
700年代後半、今日のデンマーク、ノルウェー、スウェーデンの農村では人口が増えすぎたため、勢力範囲を広げてより多くの物資を手に入れたいという欲求が高まりつつあった。やがて、スカンディナビアの人々は細く長い船ロングシップを使って各地を襲撃したり、遠方との貿易ルートを確立したりするようになった。現在では「バイキング」と呼ばれる彼らは、自分たちのことをそのようには呼んでおらず、団結した集団だとも考えていなかったようだ。
バイキングの時代は、彼らがイングランド北東部のリンディスファーンという豊かなキリスト教コミュニティーを襲撃した793年に始まったとされることが多い。それから数十年で、彼らはアイルランドに交易拠点を確保した。その後、イングランドのアングロサクソン人の王国を襲撃して、イングランド北東部に植民地を築いた。その中心となったのがローマ時代のエボラクムという古い要塞で、バイキングはこれをヨルビックと呼んだ。今日のヨークである。
バイキングは東方へも進出して、ロシアに交易拠点を設けた(ロシアという国名はバイキングの部族「ルーシ」に由来する)。彼らはボルガ川やドニエプル川を利用してカスピ海に達し、そこから現イラクのバグダッドと交易を行った。
バイキングは南方にも目を向け、かつてフランク王国のカール大帝が統治していた土地を目指した。814年のカール大帝の死後、フランス、ベルギー、スペイン北部、ドイツ西部、オーストリアは、急速に分裂し、弱体化が進んでいた。バイキングはこれを好機ととらえ、特にフランスを標的に据えた。


843年、バイキングは大西洋岸のノワールムティエ島を占領し、ここを拠点にフランス本土への攻撃を開始した。845年にはセーヌ川を遡上して多くの都市を略奪し、最後にパリに侵攻した。カール大帝の孫にあたるシャルル2世は、のちにバイキングへの対応の定番となる方法をとった。金を払って立ち去ってもらったのだ。

幻のローマ侵攻
金を受け取ったにもかかわらず、バイキングの略奪は続いた。彼らは徐々にフランス北西部のコタンタン半島に足場を固めていった。バイキングのリーダーたちがさらに南下するようになったのは、彼らがフランスに愛着を持つようになったせいかもしれない。859年、彼らは地中海に目を向けた。
地中海侵攻を指揮したのは「剛勇のビョルン」と呼ばれるビョルン・イロンシッドだった。年代記には、剛勇のビョルンともう1人の族長ハスタインが力を合わせてイベリア半島の大西洋岸を南下していったことが記されている。
当時のイベリア半島は、その大部分をイスラム王朝の後ウマイヤ朝が支配していた。バイキングは現在のポルトガル沿岸の町を略奪した後、ジブラルタル海峡を通過した。バイキングが地中海に入ったのは、このときが最初だったと考えられている。
バイキングはその後北アフリカに立ち寄ってからスペインの東の海を北上してフランス南部に到達し、ニーム近郊のカマルグ地方にキャンプを構え、そこで越冬して戦利品を蓄えた。

翌860年、バイキングは今のイタリアに到達し、今日のラ・スペツィア近郊にあったルーニという都市を略奪した。ローマ人によって築かれたルーニは、中世には繁栄を極め、強固な防御システムを備えていた。フランス北部の歴史家デュドが11世紀初頭に著した年代記によれば、バイキングは壮麗なルーニの街をローマだと勘違いしたという。
デュドによると、ルーニの強大な要塞を前にしたバイキングは、内部に侵入するために策略を弄した。ハスタインの死を偽装した彼らは、城門に使者を送り、キリスト教に改宗した指導者ハスタインを城壁内の神聖な場所に埋葬してほしいと頼んだ。「バイキングらの偽りのどうこくが聞こえた。司教は街中の人々を呼び集めた。聖職者は礼服に身を包み......女たちも大勢やってきた。彼らはまもなく故郷を追われることになった」


策略は成功し、ハスタインの「死体」は生き返った。彼は司教を殺し、民衆を殺し、仲間たちに「ローマ」の城門を開いた。しかし、それが永遠の都ではないことを知ると、バイキングたちはがっかりして遠い故郷への帰途についたようだという。

伝説の中の真実
しかし、ほとんどの歴史家は、バイキングがルーニをローマと勘違いしたという部分や、「トロイの木馬」のような戦術でルーニに入ったという部分は真実ではないと考えている。デュドの年代記は信頼性が低いとされているのだ。剛勇のビョルンの地中海侵攻について言及しているほかの3つの主要な資料は、いずれも12世紀から13世紀のもので、9世紀におきたこの出来事から、かなり後になって書かれている。
ただ、歴史家たちは、剛勇のビョルンが実在したことは信じているし、各地の歴史的文書は、こうした年代記の大まかな記述やバイキングの侵攻ルートは事実に基づいていることを示している。スペインの資料では859年にバイキングの激しい侵入が確認されており、アラブの資料にも、この時期に北アフリカのネコル王国でバイキングの襲撃があったことが記されている。

858年ころにはフランスのルシヨンの修道院が「ノースマン」に襲撃されているし、歴史家たちはニーム近郊のカマルグでバイキングが冬のキャンプをしていた証拠を見つけている。また、イタリアのピサがバイキングの船団に略奪されたことや、860年の夏から秋にかけてバイキングがフィエーゾレに到達したことを示す資料もある。
地中海がバイキングの襲撃の主要な舞台となることはなかったが、剛勇のビョルンの後継者たちは、彼の足跡をたどることになる。フランスの、のちにノルマンディー地方と呼ばれることになる地域に定住したバイキングは、キリスト教とフランス語を取り入れてノルマン人となったが、バイキングの獰猛さと戦闘力はそのままだった。
ノルマン人は、1066年のイングランド侵攻の前後に、東ローマ帝国から南イタリアを、イスラム教徒からシチリアを奪取した。彼らが建てたノルマン様式の壮大な教会は、バイキングの地中海での冒険を永遠に物語る遺産であり、それより2世紀前に剛勇のビョルンが成し遂げた大胆な航海のなごりだと言える。

(文 ANTONIO RATTI、訳 三枝小夜子、日経ナショナル ジオグラフィック社)
[ナショナル ジオグラフィック 日本版サイト 2021年12月18日付]
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