男山本店の菅原昭彦社長 大震災でも「もろみ」は残った
仕事人秘録 震災を乗り越えて先へ(7)

東日本大震災の翌朝には社員全員の安全を確認し「途中が危険なら、いつでも戻ってきていいよ」と伝えて帰宅させました。私の自宅は酒蔵よりも高い場所にあったので庭にシートを張り、バーベキューコンロで冷蔵庫にあった食材を焼いて食べました。それが震災後で最初の食事でした。
男山本店の本社が入っていた建物は津波で損壊し、酒蔵の近くにあった瓶詰め工場では膝下まで浸水する被害を受けました。離れた場所にあった資材倉庫は流失してしまいます。酒蔵は残りましたが、他のすべてを失ったわけです。「どうすりゃいいんだろうな」というのが本音でした。
蔵の周りは瓦礫が散乱していたので、私と杜氏(とうじ)の鎌田勝平さん、アパートが被災して酒蔵に残った社員1人で片付けを始めました。
酒蔵の中では米や米麹(こうじ)、仕込み水などを入れた発酵中の「もろみ」が入ったタンク2本が奇跡的に残っていました。もろみは震災を経験しても生き続けていたのです。先のことを考える余裕もないままに、管理を再開します。
もろみは発酵を続けています。適切な温度で一定の期間が経過するように管理しないと、日本酒としての質が落ちてしまいます。数日たつと鎌田さんが「もう搾らないと、品質を保てない」と言い始めました。本来は3月末に搾る予定でしたが、電気が止まって冷蔵できず、想定より発酵が進んでしまっていたのです。

鎌田さんは私の顔を見るたび「搾るための電気と水を何とかしてくれ」と言い続けます。男山本店が山の方に持っていた水場は無事だったのですが、電気はどうしようもありません。それでも電力を求め、どこも瓦礫だらけで電柱も倒れていた街を歩き続けました。
そうすると海から離れて津波の被害を受けなかった福祉施設で、稼働していない発電機を見つけました。話を聞いてみると建設会社から借りたそうです。さすがに使わせてもらうのは申し訳ないと思っていると、施設の担当者が「ちょうど今日の午前に電気が復旧したから、持って行っていいですよ」と言ってくれたのです。震災から6日後、3月17日のことでした。
しかし発電機は工事用の大型で、重量が2トン以上ありました。福祉施設と酒蔵は1キロメートルほど離れています。どうやって運べばいいのか悩んでいると、工場が全壊した近所の鉄工所の経営者が「うちにクレーン式のトラックがあるから運んであげよう」と言ってくれたんです。
我々では電力ケーブルを配線することも無理でした。そこで避難所にいた電気工事業の知人に電話するとすぐに駆けつけ、十分な道具もない状況なのに作業してくれました。我々が酒造りを再開するのを地域の人たちが後押ししてくれたのです。それを決して忘れることはできません。
(日経産業新聞副編集長 村松進)
