新たなやる気に満ちて 舞台に立つ喜び(井上芳雄)
第111回
井上芳雄です。3月18日から世田谷パブリックシアターでシス・カンパニー公演『奇蹟 miracle one-way ticket』の舞台が開幕しました。本来は3月12日が初日の予定だったのですが、僕の新型コロナウイルス感染に伴って初日が延期になり、多くの皆様にご心配とご迷惑をおかけしてしまいました。たくさんの励ましのメッセージをいただき、本当にありがとうございました。今は体調は良好で、新たなやる気に満ちています。ようやく初日を迎えることができ、再び舞台に立てた喜びを噛みしめながら、また全力でがんばりたいと思います。

新型コロナの感染が確認されたのは2月下旬でした。のどに違和感があって、少し熱が出始めたので、すぐにPCR検査をしたところ、やはり陽性でした。ちょうどロシアがウクライナに侵攻を始めたころで、世界のことも心配だし、自分の体調も悪くなってきて、暗たんたる気持ちになりました。その後、2日間くらい熱が出て、体の節々が痛かったりしたのですが、3日目くらいから平熱に戻り、のどの痛みや鼻詰まりが徐々に治ってくるという感じでした。僕の場合は、軽い症状だったようです。
自分の体調もつらかったけど、一番心苦しかったのは主演する舞台『奇蹟 miracle one-way ticket』の3月12~17日の公演が中止になり、初日が3月18日に延期になったこと。制作会社のシス・カンパニーからは開演に向けて十分な稽古期間を確保するために延期を決めたと伝えられ、役者としては稽古ができるのはありがたいことですが、当事者としては経済的にもスケジュール的にもいろいろな方にご迷惑をかけてしまい、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
そんななか、とてもありがたかったのが、たくさんの励ましの言葉をいただいたことです。ファンの皆様からは「コロナ禍のなかでずっと止まらずに走り続けてくれて、励まされてきたので、今回はゆっくり休んでくださいね」といった優しく、温かいメッセージがたくさん届きました。うれしかったです。僕は、自分が俳優や歌手としてやりたいと思うことをやってきたのですが、それを受け取ってくださる方との間で、持ちつ持たれつのような関係になれていたのなら、とても幸せなことだと思います。
そして、当たり前のことではありますが、健康や生命が一番大事なのだとあらためて感じました。理屈じゃなくて本能的に。これからまた忙しくなってくるでしょうが、優先順位ということでは、自分や家族や周りの人たちの健康や生活が大切なんだなと。
療養中は、オンラインで稽古の様子を見たり、今までこんなにまじめに台本を読んだことがないというくらい読み込んだりして、カンパニーに戻ったときに少しでも皆さんに迷惑をかけないように準備していました。そうやっていると、すごくお芝居がしたくなって、早く元に戻りたい、セリフを言いたい、歌ってみたいという気持ちがふつふつと湧き上がってきます。この数年間のコロナ禍でも、僕は比較的ずっと表現をし続けてきて、どこかギリギリの状態でやり続けていたのですが、今回いったん止まってリセットしたことで、また表現を始められる喜びを強く感じられた気がします。
稽古場には3月6日から復帰しました。普通に動けましたが、最初のころは前よりちょっと疲れやすい気もしたし、完全に元通りかといわれると、初めてのことだから自分の体がどうなっているのかはっきり分からないところもありました。よくいわれていることですが、ただの風邪じゃないみたいな感じでした。まだ未知のウイルスではあるので、これからも体調には気をつけていきたいと思っています。
答えが出たから面白くなるとも限らない

さて、今回の『奇蹟 miracle one-way ticket』はストレートプレイ(セリフだけの演劇)で、劇作家・北村想さんの新作オリジナル戯曲です。北村さんと演出の寺十吾(じつなし・さとる)さんとご一緒するのは初めてなので、新鮮なことばかりです。
本作の主人公は、記憶をなくした名探偵と、ストーリーテラーも務めるその親友のコンビ。僕は探偵・法水連太郎(のりみず・れんたろう)の役で、鈴木浩介さんが法水の高校時代からの親友で、現役の医師である楯鉾寸心(たてほこ・すんしん)を演じます。名探偵と相棒といえば、シャーロック・ホームズとジョン・ワトソンが有名ですが、2人はまさにそんな関係。日本が舞台ですけど、お互いをシャーロック、ワトソンと呼び合ったりもします。
北村さんは、僕のことをまったく知らずに台本を書かれたそうです。僕の舞台もたぶんご覧になってなくて、どんな俳優なのかもよく知らなかったみたいで、Zoomの画面越しに初めてお会いした本読みのときに「すごく驚きました」と言われました。どう驚いたのかは教えてくれなかったのですが(笑)、悪い驚きではなかったようです。それくらいお互いに前情報がないなかで、2月上旬から始まった稽古は、初めてともいえる経験ばかりでした。
物語も、出合ったことのない内容です。深い森で、傷を負った探偵が記憶喪失になっているところから始まります。記憶がないので、何の事件を依頼されたのかも分からないし、なぜ記憶を失ったのかという謎もからんできます。しかも分かりやすく物語が進むのではなく、どういうことなんだろうと見る人に想像する余地を残したまま進んでいきます。
稽古で戸惑ったのは、その謎に対して、作家の北村さん自身も答えを出してくれないこと。例えば、「尋ねてきたのは誰なんですか?」と具体的に聞いても、「それが分からないんですよ。彼かもしれないし……、彼かもしれない……」と曖昧にしか答えてくれません。北村さんが言うには、「聞いて答えが出たから面白くなるかというと、そうとも限らない」。稽古場で「この人はこうなんじゃないか」という答えが出れば、それが正解で、それでいいんだというようなことでした。僕は初めてご一緒するので、そのあたりのあんばいがよく分からずに、戸惑いながらの本読みや稽古でした。
演出の寺十さんやスタッフさんは、そのあんばいがよく分かっているみたいで、「やっぱり、あれはそうでしたね」とか推理を楽しんでいる様子です。分からないことを想像する楽しさがある台本だと感じたし、分からないことが好きな人たちが集まってつくっている演劇なのだとも思いました。
もちろんストーリーが進むに従って、謎は解き明かされていきます。探偵が過去を少しずつ思い出したり、分かってくることも増えるのですが、全部が解決するわけでもない。そのうち僕は歌ったりするし、過去と現在の時空を行き来したりもして、演劇だからこそなし得る世界が展開します。ちなみに、タイトルにある「奇蹟」という漢字にも謎を解く鍵が隠されています。「奇跡」が常識を越えた思いがけない神秘的な現象や出来事を指すのに対して、「奇蹟」はより宗教的でスピリチュアルな現象のこと。辞書では「キリスト教において、超自然的な聖なる力が具体的に現れるさまを示す」と説明されています。
また、セリフの中には今のウクライナの状況をほうふつさせるものがあったりします。僕は療養中にニュースを見ながら、世界情勢を予知したような劇中の描写に、劇作家の想像力ってすごいな、と驚きました。そして、自分はどう演じて伝えればいいんだろうと、療養中はいつもより考える時間がたくさんあったので、そんなことにも思いを巡らせていました。今の世の中や社会とつながっているのも演劇ならではのメッセージ性で、『奇蹟 miracle one-way ticket』という作品の大きな魅力です。
転んでもただでは起きないのが役者の仕事
療養中には、ほかにも発見がありました。共演者の岩男海史君が僕の代役をしてくれた通し稽古をオンラインで見て、自分の役が「どう見えるか」の気づきがたくさんあったのです。役者がお芝居をするときは主観的にしか考えられなくて、それを演出家が客観的に見て、こうだよと言われるのを信じてやっています。なので自分の役を客観的に見られたのは、初めてともいえる面白い経験でした。例えば、「記憶喪失でいる様子って、ちょっとチャーミングなんだな」とか「記憶も定かではないのに事件や謎を解明しようとしているのは、純粋な探究心だろうし、大きな意味での愛情でもあるのかな。愛がある人に見えるな」とか。そんな自分の役の思ってもいなかった要素を発見して、刺激を受けました。
今回しばらく稽古を離れましたが、その間に作品の大きな骨格や輪郭がはっきり見えてきた面もあります。そう考えると、僕はやっぱりポジティブな人間なのかなと思います。コロナ感染は大変なことでしたが、その経験からも何かを得たいという思いがあるし、療養中にお芝居のことを考え続けていたことが演技に生きていたらうれしいこと。転んでもただでは起きないというか、それが役者の仕事なのだと感じています。

(日経BP/2970円・税込み)

「井上芳雄 エンタメ通信」は毎月第1、第3土曜に掲載。第112回は4月2日(土)の予定です。
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