気候変動と医療、統合対策急げ 救急搬送が増加
Earth新潮流 日本総合研究所常務理事 足達英一郎氏

気候変動に対して早急に対策を講じるべきだとする認識が、世界の医療関係者や公衆衛生に携わる人々のあいだでも、この数年で徐々に共有されるようになってきた。
5月19~20日にドイツ・ベルリンで開催されたG7保健大臣会合では、「COVID-19パンデミックの克服」はもちろんのこと、これと並んで「気候変動と健康」が主要議題として取り上げられた。採択された宣言文でも「我々は、健康を守るために気候変動と闘うことの重要性を認識する」と明記された。
気候とメンタルヘルス
既にこれまでも、気候変動が①気象災害や火災による死傷者、②大気汚染による呼吸器系疾患、③熱ストレスによる熱中症や心血管系疾患、④衛生害虫・宿主動物の活動活発化による節足動物媒介感染症や人獣共通感染症、⑤海水中や淡水中の細菌類増加による水系感染症、⑥食品の細菌汚染・増殖による食品媒介性感染症などを、それぞれ増加させる懸念は指摘されてきた。
これらに加えて、足元で急速に関心が高まっているのは、気候変動とメンタルヘルスとの関係である。2月28日に公表された気候変動に関する政府間パネル(IPCC)第6次評価報告書(AR6)第2作業部会(WG2)報告書の政策決定者向け要約(SPM)のなかで、次のように記された。
「気候変動は、評価された地域の人々のメンタルヘルスに悪影響を及ぼしている」、「一部のメンタルヘルスの問題は、気温の上昇、気象・気候の極端現象に起因するトラウマ(心の傷)、及び生計や文化の喪失に関連づけられる」、「不安やストレスを含むメンタルヘルスの課題は、温暖化が更に進めば、特に子ども、青少年、高齢者及び基礎疾患を有する人々において増大すると予想される」――。
2020年11月に英国王立精神科医学会が公表した調査結果で、対象となった英国の児童・思春期精神科医の57%が、気候危機や環境の状況に関して悩んでいる子どもや若者を診察した経験を有すると回答した事実も記憶に残る。前述したG7保健大臣会合宣言にも「我々は、気候変動の影響がメンタルヘルスとウェルビーイングへのリスクを高める可能性があることを認識する」との一文が載った。

22年5月に世界保健機関(WHO)が発表した各国政府政策立案者向け提言は、両者の関係を具体的に説明している。そこで示された経路は大きく3つに大別される。
第一は激甚な気象現象そのものが身体に及ぼす脅威である。高温による睡眠障害、激甚な気象災害によるストレス反応などが当たる。第二は気候変動を原因とする環境・社会的変化が精神的状況に及ぼす脅威である。具体的には食糧・水不足を通じた不安、収入や住宅を失うことを通じた不安、暴力や紛争を通じた不安が、統合失調症や心的外傷後ストレス障害、うつ病、アルコール依存や薬物依存、自殺などに結びつく経路である。
そして第三が、気候変動対策の不作為が特に若者の心理的状況に及ぼす脅威である。将来への絶望が常態的な無力感、喪失感、フラストレーションを発生させるというのである。WHOは早急にメンタルヘルスへの配慮と気候変動対策を各国が統合して取り組むことを提言している。
救急医療への負担
もう一つ、医療関係者の注目を集めている領域が、気候変動が一層進展するなかで救急医療システムをいかに維持していくかという論点である。日本国内でも22年の5月1日~8月7日の熱中症による救急搬送人員は5万2452人(速報値)で、前年同期間の3万6255人(確定値)より1万人以上多い水準となった(総務省消防庁調べ)。
国立環境研究所の予測によれば、気温の上昇がそれほど大きくない気候モデルに基づいた場合、2030~40年ぐらいでは熱中症患者の発生数に顕著な増加は認められない。だが、2100年になると患者数が今の2倍に増加するとされる。より大きな気温上昇を予測しているモデルの場合には、2倍では収まらず、地域によっては3倍あるいは4倍になることも予想されている。
実際には熱中症以外に、増加する気象災害や火災による被災者、呼吸器系疾患・心血管系疾患の急性患者、各種感染症や食中毒患者も救急医療の対象になることが予想される。救命救急の現場は、これまでの常識とは異なる状況に直面する可能性がある。
気候変動が一層進展するなかでの救急医療システムのあり方にいち早く目を向けているのが米国である。3万8000人以上の会員を有するアメリカ救急医師会が「気候変動は医療システムの多くの側面にストレスを与えており、救急医療の最前線である救急医療の負担は大きい」との声明を発したのは18年のことであった。
同会の公式ジャーナルである救急医学年報に20年に掲載された論文「米国の救急医療に対する気候変動の臨床的影響:課題と機会」は、米国の救急医療部門に顕著な気候関連の疾患の事例や、臨床診療の推奨事項と行動介入の例を示している。
ここで注目されるのは、極端な高温による産科合併症と早産の増加、労働災害の増加、交通事故の増加、対人暴力の増加、山火事の煙暴露によるぜんそく、慢性閉塞性肺疾患を有する患者の呼吸困難の発症などの事例である。いずれもその因果関係の確からしさや深刻度の評価が十分になされているものではないが、気候変動がもたらす影響の幅広さをうかがわせる内容となっている。
日本国内では精神神経医学の領域でも、救急医学の領域でも気候変動の影響を議論の俎上(そじょう)に載せることは緒についたばかりとの印象がある。しかし、医療・公衆衛生関係者が「健康やいのちを守るために気候変動対策は明らかに必要だ」と積極的に声を上げることは、大きな意義を有するに違いない。
[日経産業新聞2022年8月19日付]

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