mRNAワクチン成功の鍵 驚きの「構造ウイルス学」とは

新型コロナウイルス感染症が世界を席巻する前から、アジア、中東、ヨーロッパの一部地域にクリミア・コンゴ出血熱というウイルス感染症が広がっていた。感染すると、発熱、筋肉痛、吐き気、皮下出血などの症状が現れ、死に至ることもある。致死率は40%にも上る。
散発的に流行し、地域によって感染者数も異なるが、着実に増加していることをデータは示している。アフガニスタンでは、2007年に感染が確認されたのはわずか4人だったが、18年には483人まで増えていた。18年には、世界保健機関(WHO)によって研究開発が必要な最優先事項の一つに挙げられたが、その治療法はいまだに見つかっていない。
現在、研究コンソーシアムによって、クリミア・コンゴ出血熱ウイルスの構造が研究されており、治療法やワクチン開発への期待が高まっている。
原子レベルで感染症のウイルスを理解しようとする科学は、構造ウイルス学と呼ばれる。ここ数十年でこの分野は飛躍的に発展し、標的とする病原体の構造に基づいて設計されたワクチンが開発されるようになった。
新型コロナウイルスのメッセンジャーRNA(mRNA)ワクチンも、構造ウイルス学によってもたらされたものだ。さらに、長年科学者たちを悩ませてきたエイズウイルス(HIV)についても、初のワクチンの開発が期待されている。
構造ウイルス学は、いかに病原体に対して最強の抗体反応を引き出し、最高のワクチンを作るかを理解するうえで重要なツールであると、米テキサス大学オースティン校のジェイソン・マクレラン氏は言う。氏の研究室は、新型コロナウイルスがヒトの細胞へ侵入するために必要なスパイクタンパク質の構造を解明し、それを基に2種のmRNAワクチンが開発された。
「これですべてのワクチンを作ることができるわけではありませんが、今後多くのワクチン開発に利用されるでしょう」
感染力が最も強い部位を特定
構造ウイルス学は、ウイルスがどのように感染し、細胞に侵入するかの基本的な仕組みを研究する。そのためには、「まずウイルスがどのような構造をしているのかを知らなければなりません」と話すのは、米パデュー大学の構造ウイルス学者マドゥマティ・セバナ氏だ。
セバナ氏は、構造ウイルス学を自動車の整備士に例える。整備士は、機械の部品をすべて理解し、それらがどのように働いているかを知らなければならない。「私たちも同様に、ウイルスとその構成要素の仕組みを解明しようとしています」。そうすることで科学者たちは、ウイルスのタンパク質がどのようにヒトの細胞に侵入し、複製し、感染を引き起こすのかをつなぎ合わせ、全貌を明らかにする。
構造ウイルス学を使って開発された「構造ベースワクチン」は、ウイルスの感染力が最も強い部分をねらって、体が最も強い抗体反応を起こせるようにする。構造ウイルス学は、重症急性呼吸器症候群(SARS)や中東呼吸器症候群(MERS)を含むコロナウイルスが人間の細胞へ侵入するときに、ウイルスの持つスパイクタンパク質がカギを握っていることを明らかにした。それらの構造を解明し、スパイクタンパク質を妨げる方法を応用して、新型コロナウイルスのmRNAワクチンの有効性を大きく高めることに成功した。
ウイルスとタンパク質を調べるには様々なツールがあるが、特に重要なのは、X線結晶構造解析と低温電子顕微鏡だ。この2つの技術が近年大きく進歩したことが、構造ベースワクチンの躍進につながった。「今後もこの技術を利用して多くのワクチンが開発されると思います」と、セバナ氏は言う。
X線結晶構造解析を行うには、まずタンパク質を溶液に浸して、氷砂糖のように結晶化させる。この結晶にX線ビームを当てると、規則正しい結晶の構造により回折する。そのパターンを撮影して、コンピューターで3次元(3D)画像を生成できる。
しかし、すべてのウイルスやタンパク質がうまく結晶化するわけではない。結晶化が難しい場合は、低温電子顕微鏡を利用する。こちらは、薄い氷の層の中でタンパク質を凍らせ、そこへ電子ビームを当てて、2次元画像を作成する。これを、角度を変えて数十万回繰り返し、ソフトウエアですべての画像を組み合わせて、3Dモデルを作成する。
米スクリプス研究所の構造生物学者アンドリュー・ワード氏は、少し前まで低温電子顕微鏡で原子レベルの画像を作れなかったと語る。しかし、10年に開発された新しい世代のカメラは、解像度が上がり、何枚もの写真を高速で撮影できるようになった。
こうして、X線結晶構造解析と低温電子顕微鏡は、HIVやジカ熱、エボラウイルス病、インフルエンザなど、様々な感染症ウイルスのタンパク質の構造を解明してきた。
ウイルスの「ビフォーアフター」がまるわかり
ヒトに感染するときにコロナウイルスのスパイクタンパク質が変形するように、クリミア・コンゴ出血熱にも感染の前後で形が変わる分子がある。糖タンパク質という分子で、棒のような形状が三角形になる。
科学者たちは、この糖タンパク質の変形を阻止するワクチンなら、効果が高いだろうと考えている。しかし、それには原子レベルでその形を正確に知る必要がある。
マクレラン氏の研究室は、世界7つの研究機関で構成される「プロメテウス」と呼ばれるコンソーシアムに属している。マクレラン氏のチームがまず、クリミア・コンゴ出血熱から回復した患者の抗体からタンパク質を分離し、X線結晶構造解析を使って感染前のタンパク質の形を特定し、3D画像を作成した。
これと並行して、フランス、パリにあるパスツール研究所のフェリックス・レイ研究室が、感染時のタンパク質の形を特定した。こうして、標的とするタンパク質の変異前と後の、いわゆる「ビフォーアフター」画像が作成された。
「初めてこうした構造を見るときは、いつも気分が高揚します。そのタンパク質がどんな形をしているのか、世界で初めて自分が目にすることになるのですから」と、マクレラン氏は語る。
これらの画像のおかげで、抗体がいつどこでウイルスに結合するのかがわかり、なぜ効果的なのかも明らかになった。ある抗体はタンパク質の変形を阻止していたのに対し、別の抗体はヒトの細胞への侵入を妨げていた。この研究を基に、より良い治療薬やワクチンの開発が期待できるだろうと、マクレラン氏は言う。
プロトタイプワクチンで次に備える
構造ウイルス学と構造ベースワクチンは、人類とウイルスとの戦いに希望をもたらすものだが、すべての病原体に適しているわけではない。構造ウイルス学は抗体に焦点を当てているが、免疫系のもう一つの重要なプレイヤーであるT細胞の方が効果的に撃退できるウイルスや寄生虫もあると、セバナ氏は言う。
また、一部のウイルスについては、回復者の強い抗体を手に入れるのが難しいとマクレラン氏も指摘する。感染後急速に悪化し、致死率が高いウイルスの場合、血液を採取できる生存者が十分にいないためだ。
マクレラン氏は、病原体の基本の型となるプロトタイプを定め、未知の感染症も含めて将来起こりうる流行に備えることを提案している。
「新たな病原体が現れたとき、治療薬やワクチンを開発するためにいちいち最初からすべての段階を踏んでいる暇はありません」。そうなったときのために、研究者はまず同じ仲間のウイルスを標的とすることができる。
「例えば将来、どのハンタウイルスがエピデミックを引き起こすかはわかりませんが、ハンタウイルスはほとんどが似ていると推測することはできます。そこで、プロトタイプのウイルスに対して構造ベースワクチンを設計しておけば、新たな変異株が出てきても、持てる知識をすべて使って迅速に対応できるでしょう」
(文 JILLIAN KRAMER、訳 ルーバー荒井ハンナ、日経ナショナル ジオグラフィック社)
[ナショナル ジオグラフィック ニュース 2022年2月9日付]
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