ひとり芝居で全15役 初の音声劇に挑戦(井上芳雄)
第102回
井上芳雄です。ミュージカル『ナイツ・テイル-騎士物語-』の大阪公演が9月30日に終わり、10月6日からは東京の帝国劇場で上演を続けています。満席となった帝劇の景色を見るのは約2年ぶり。ありがたいと思いながら毎回舞台に立っています。10月19日からは僕がひとり芝居で全15役に挑戦したひとりぼっちょ音声劇(おとごえげき)『クンセルポーム・クンセル塔の娘』の配信が始まります。ミュージカルの新しい楽しみ方にチャレンジしました。

まずは、東京公演の幕が無事開いた『ナイツ・テイル』の話から。帝劇で大規模なミュージカル公演の舞台に立つのは、一昨年の『エリザベート』以来です。コンサートなどで舞台に立つ機会はあったのですが、新型コロナウイルス感染対策のため、半分の客席だったので、東京公演の初日に久しぶりに満員の帝劇の客席を見たときは感激しました。カーテンコールでそのことをしゃべったら、堂本光一君も同じことを感じていたそうです。
『ナイツ・テイル』の舞台は、9月の大阪公演の間にもいろんな変化がありました。演出家のジョン・ケアードは「毎日違うことをしてください」というタイプなので、僕はそれを免罪符に、思いついたことをやってみて、それに光一君をはじめみんなが反応してくれるという毎日でした。ほかの人たちもそうで、自分たちでいろんな発見や工夫をしたり、時にはアドリブを交えながらの日々に、舞台が発展している実感がありました。
その一方で、シェイクスピアのお芝居に役者がアドリブを加えたりするのを、演出家のジョンがどう思うか気になっていたのですが、東京公演の前に1回舞台稽古があり、彼に見てもらう機会がありました。なんと言われるかドキドキしていたら、ジョンはアドリブのことなどにはふれず、物語の根っこをあらためて強調しました。例えば、堂本君と僕が演じる2人の騎士の関係なら、もちろん仲はいいのだけど、喧嘩(けんか)したら殺し合うんじゃないかというくらい真剣だし、お互いをよく分かっているがゆえに、相手がいらつくような言い方をわざとするところがあるんだよ、そこをもっと意識してみて。そう言われると、「このアドリブはないな」とか「これはいいかもしれない」と僕たち自身が判断するようになります。役者のやることを否定せず、自分たちで考えるように導くのが、ジョンの演出の素晴らしいところです。東京公演を前に、あらためて感服しました。
そんなふうに日々進化している『ナイツ・テイル』は、11月7日まで帝劇で上演して、その後は福岡の博多座での初上演となります。全97回公演(うち8公演は中止)なので、3分の1を過ぎたくらいです。演劇界も少し落ち着きを取り戻してきた状況なので、このまま無事に公演を続けられることを願っています。
生の舞台では絶対にできない音声劇の世界
10月19日からは僕がひとり芝居で全15役に挑戦したひとりぼっちょ音声劇『クンセルポーム・クンセル塔の娘』の配信が始まります。1人の役者が何役もの登場人物を演じ分けて、歌い、語るという"聴く"ミュージカルです。僕のミュージカル俳優仲間である安倍康律君が企画して、作・演出・作詞・作曲を手がけました。安倍君は「ぼるぼっちょ」という劇団を主宰していて、僕のラジオ番組『井上芳雄 by MYSELF』発のコンサートでは構成をしてくれたり、やはりラジオ番組発で今年1月に配信したオリジナル配信ミュージカル『箱の中のオルゲル』の作・演出・作詞をしてくれたりしています。
その安倍君が昨年、コロナ禍で安心安全に楽しめるモノは……と考えて、ひとりぼっちょ音声劇に行き着いたそうです。僕も企画を聞き、コロナ禍で公演中止が相次いだりしてミュージカル俳優が舞台に立てないという状況の中でも、できることの選択肢を増やすという意味で、今の時期だからこそのアイデアだし、やる意義があると賛同しました。
こんなストーリーです。時は今よりはるか昔。クンセルポーム・クンセル島という島に、クンセルポーム・クンセル塔という天にまで届きそうなほど高い塔があって、その頂にエレーネという娘が1人住んでいます。はるか遠くに見える、美しいであろうこの娘に、王子や家来、学者とその助手、島民たちの誰もが会いたがりますが、塔の階段は途中で途切れており、頂にたどり着けません。誰がどうやって、エレーネに会えるのか……。
登場する15の役を僕が1人で演じました。僕は声色を使い分けたり、演じ分ける技術で見せるタイプの俳優ではないと思うのですが、だからこそ安倍君は、普段舞台ではやらないような役をやらせたかったようです。島民の男にも豪快な男、ひょろけた男、太っている男といろんなタイプがいて、少年や老女、娘の母親や魔法使いの役もありました。実際にやってみると、初めてだらけで、収録は思った以上に大変でした。ミュージカルの新曲が14曲。安倍君がまたすごくキーの高い曲とか激しい曲とかいろんなナンバーを書いてくれたので、歌えるようになるまで覚えないといけないし、しかも声色を変えて。1日では全然収録できなくて、夏の間に2日に分けて、それぞれ6時間くらいぶっ通しでやりました。
でも、1人でこれだけいろんな声でしゃべりまくり、歌いまくることは生の舞台ではできません。音声劇のスタイルだからできる世界がここにあります。特に歌で声色を変えるのは、初めての挑戦でした。声が重なった歌を聞いたときには、気持ちいいというか、全部が自分の声なのに、こんなにたくさんの人が歌っているのがなんとも面白いと思いました。そこは今回の聴きどころだと思います。演奏は杉田未央さんが生でピアノを弾いてくれていて、あわせて作曲・編曲もされています。
女性の声は正直難しかった。あまりやったことがないし、自分で聴いても、まだ勉強の余地がありそうです。男性の僕がイメージする女性の言い方になっているので、もう一つ何かフィルターを通さないといけないのかな。宝塚の男役の人が10年かかるというくらいなので、異性の雰囲気はすぐに出せるものじゃないと実感しました。
距離感の表現も音声劇ならでは。地上にいる王子と塔の頂にいるエレーネの会話は距離が天と地ほど離れているので、それだけ遠くの人に向かって、なんとかだーと言い続ける演技は大変でした。収録の仕方にしても、基本的には役を演じ分けながらまとめて録ったのですが、セリフが多いときは役ごとに分けて録ったりもして、初めてなのですべてがトライアル。自分が培ってきた経験と技術を総動員しないとできない仕事ではありました。
作品の世界観は、安倍君が持ち味としている、どこの国とも時代ともわからない設定のファンタジーで、言葉遊びのギャグもちりばめられていて、笑えるところがたくさんあります。いろんな曲調のナンバーがあるし、王子がおばかだったり、それぞれのキャラクターも面白くて、軽くて明るいミュージカルコメディーになっています。だから気軽に聞いてほしいですね。
僕が仕上がった音源を受け取ったのは、大阪で『ナイツ・テイル』の公演が延期になった期間だったので、外を散歩しながらずっと聴いていました。それにはすごく向いていると思います。他のことをしながらでも聴けるし、BGM代わりにしてもらってもいいでしょう。セリフを聴き逃したから物語が分からないという話でもないので、分割して聴いてもいい。僕は子供にも聴かせたいと思います、本を読むようにして。人によって楽しみ方はそれぞれでしょうから、どんなふうに聴いてもらえるのか、興味深いです。
違う声は全く出てこない不思議な安心感
音楽は日常的に聴くものですが、ミュージカルは劇場で歌ったり踊ったりするのを見るという非日常感を楽しむものだと思うんです。でも、今回のひとりぼっちょ音声劇はどっちかというと、日常の中に溶け込むミュージカル。そこが今までになかったスタイルで、コロナ禍で生まれたミュージカルの新しい試みではないでしょうか。基本的に僕1人がやっているので、耳心地のよさというか、違う声はまったく出てこないという不思議な安心感もあります。だからオムニバスではなくて、ソロアルバムという感じ。ソロミュージカルというべきでしょうか。耳からの情報だけなので、想像力でイメージをどこまででも膨らませることができて、聴く人それぞれのクンセルポーム・クンセル塔が立ち上がってくると思います。その自由度は、演劇ならではの面白さです。
ひとりぼっちょ音声劇というフォーマットにも大きな可能性を感じます。安倍君がまさにそうですが、これから世に出ようというクリエーターにとっては、軽いフットワークで作品を世に出せるという点で、いい発表の場だと思います。劇場を借りて舞台をつくるとなると、お金も手間もかかるので、出演者1人による"聴く"ミュージカルを配信で届けるというやり方は、いろんな活用の仕方があるのではないでしょうか。今回は僕が演じましたが、次の機会があるなら、別のミュージカル俳優がやってみてもいいと思います。
ミュージカルの新しい表現の形として、ミュージカル俳優にとっての新たな可能性として、みなさんからどんな反応をいただけるのか、とても楽しみです。

(日経BP/2970円・税込み)

「井上芳雄 エンタメ通信」は毎月第1、第3土曜に掲載。第103回は11月6日(土)の予定です。
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