50代で起業塾の門たたく ライフシフトに正解なし - 日本経済新聞
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50代で起業塾の門たたく ライフシフトに正解なし

50代以降のキャリアを、社会課題の解決を通して構築したいと考えるミドル世代は少なくない。自身も経験した更年期の症状の改善をビジネスにしたいと、会社を立 ち上げた田中明子さんもそのうちの1人だ。遅咲きの起業家として、社会への恩返しを目指す。

ミドル世代に元気でいてもらうことが、家庭や社会の活性化にもつながる――。このような願いを胸に今月、約1年半の準備を経て新サービスを立ち上げる50代がいる。2021年2月にウエルキー(京都市)を起業した田中明子さん(58)だ。

社名のウエルキーは、「健康(ウェルネス)を維持(キープ)」が由来。名前からも分かるように、開始するのは女性をターゲットとしたヘルスリテラシー向上、更年期症状の緩和、生活習慣改善サービスだ。管理栄養士がオンライン上で定期的に栄養と運動について指導してくれるもののほか、今後は日々の食事の写真をスマートフォンで送ると、現在の食事内容のリスク、症状や悩みに適した食材や調理法など食事改善の助言を管理栄養士がリポートにして提供するメニューも準備している。

田中さん自身は、健康に関わる仕事の経験はまったくなく、一からのスタートだ。1964年生まれの田中さんは、当時の女性では珍しい工学部出身。応用化学を専攻し、新卒で横河電機に入社。分析機器におけるアプリケーション開発に従事した経歴を持つ。

その後、2006年に大阪の研究所閉鎖を機に、食品検査の受託会社に転職するも、引き続き検査関連の業務に携わった。品質保証責任者として医薬品の試験に関わる品質保証体制の立ち上げにも携わった。

「とても恵まれた会社員生活だった」と田中さんは振り返る。結婚そして2度の出産を経ても、自分の専門を生かして働き続けることができた。家族も自分が仕事を続けることを応援し続けてくれた。子どもが小さかったころは、帰宅するまで近くに住む両親が面倒を見てくれたのもありがたかった。

しかし、立場が上になるにつれ、キャリアの方向性に悩むようになる。マネジメントを行う中で経営陣と現場社員との橋渡し的な業務が増え、双方の利害調整に奔走する日々が続く。「働くことは好きだけど、会社員でいる限り会社の言われた業務しかできない。私は本当に人の役に立つ仕事をしているのだろうか」と、悩むようになる。

会社員生活にピリオド

そんな時、知人から京都リサーチパークで開催されたスタートアップのイベントに誘われた。京都リサーチパークには新産業の集積地として様々な企業が集まるとともに、企業を支援する投資家や学者も数多く関わっている。そこで、起業を目指す人のための活動「miyako起業部@KRP」が新設されるから、説明会に行ってみないかというのだ。

miyako起業部@KRPは社会人も入部OKで、月2回、部活動のようにさまざまな専門家の先生から起業に関する指導を受けられるという。興味があったので入部してみることにした。実際、さまざまな先生と話をしていくうちに、田中さんは自分の心の中にある変化が起こっていることに気づく。

これからもずっと社会に関わっていくために、自分に何ができるか考えたとき「起業をしたい」と思うようになったのだ。入部した翌年の20年、会社の大きなプロジェクトに一区切りがついたのを機に、早期退職制度を使い、30年余りの会社員生活にピリオドを打った。

起業するとは決めたものの、何をやるかははっきり固まっていなかった。自分が役に立てることは何だろう、今まで受けてきた恩をほかの人々につないでいくには何をすればよいのだろう。しばらく自問自答する日々が続いた。

起業について本当に何も知らなかったので、「ニーズの検証」「ビジネスモデル」「市場確認」「競合分析」といった、起業前に必要なプロセスを学ぶとともに、自分の事業構想を試行錯誤しながら膨らませていく毎日だった。

起業目指す仲間と共同生活

京都大学の非常勤理事で、医薬品の商品化で2度の新規株式公開(IPO)を果たした米国を拠点に活動する実業家の久能祐子氏らが、社会課題を解決する事業アイデアとそれに取り組む起業家を育てることを目的に立ち上げた起業支援会社、フェニクシー(京都市)が提供する「フェニクシーインキュベーションプログラム」にも参加した。

同社の居住型施設「toberu(トベル)」にて4カ月間、起業を目指す仲間たちと共同生活を送り、事業アイデアを磨く。「当時大学生だった次男に『お小遣いあげるからお父さんにご飯作ってあげて』と頼んで参加した」と田中さんは笑いながら振り返る。

その後の専門家との対話やアドバイスを通じて浮かび上がったのが、更年期世代が抱える悩みの課題解決だった。田中さん自身、のぼせやほてりなどの「ホットフラッシュ」や原因不明の痛みなど、更年期症状には随分悩まされたが、「これが更年期症状なのだ」と気付くのに時間がかかった。

忙しさにかまけて、適切な治療を施してくれる病院に行くのも遅れていた。正しい知識や専門家の適切な助言にもっと早い段階で接していれば、様々な症状ももう少し軽減されはずだ。

健康管理を題材にしたビジネスは数多くあるも、更年期に特化したものはまだ珍しい。女性ホルモンが急激に減る更年期は、必要な栄養素を特に意識して摂取しないと、その後の健康にも大きな影響が出る。

これまではあまり表だって語られる話題ではなかったが、女性の社会進出とともに、女性特有の健康問題への対処は大きな課題になるだろうと田中さんはみる。田中さん自身、更年期症状で健康に自信が持てず昇進を辞退した経験があり、同じ経験をしている女性が非常に多いことも知った。「積み上げたキャリアを失うのは本当にもったいない。機会損失をなくしていきたい」と話す。

資金調達面にはハンディも

今後は、企業に福利厚生の一環として活用してもらうことも視野にサービスを拡大したい考えだ。

事業拡大に向けては資金調達の検討も必要だ。もちろん事業アイデアを魅力的にすることが大前提だが、ベンチャーキャピタルなどの投資家は、20代、30代の起業家に目が向きがちだ。50代の自分には残された時間が若手起業家より少なく、資金調達面ではハンディがあると感じている。

しかし、これからは人生100年時代。中高年の起業家も増えるのではと期待している。「スタートアップの世界もエイジフリーになるはず。自分はその先駆者になりたい。だからやるしかない」。笑顔を見せた田中さんの瞳の奥に、静かな闘志と決意が宿っていた。

人を預かり、未来に貢献


米経営学者ピーター・ドラッカーが残した「何によって覚えられたいか」という言葉がある。人生の折り返し地点を迎えた多くの40~50代は「このままでいいのか」との思いに駆られ、人生の意義を考える。こんなふうに悩めるミドル世代は会社員ばかりではない。起業家として成功した大谷真樹さん(61)も同じだった。

大谷さんはNEC勤務などを経て、市場調査会社インフォプラント(現マクロミル)を創業。2007年にヤフー(現Zホールディングス)の傘下に入ったのち、45歳の時にライフシフトを決意した。「人を預かり、地域や日本の未来に貢献したい」。選んだのは教育者としての道だった。

「金を残して死ぬものは下だ。仕事を残して死ぬものは中だ。人を残して死ぬものは上だ」という、明治時代の政治家・後藤新平のいまわの言葉に衝撃を受けたのがきっかけだった。まず故郷・青森県八戸市の八戸大学で、客員教授として社会人向けの「起業家育成講座」を開講。51歳で学長に就任し、大学の立て直しや入学者数の底上げで実績を残した。

18年に学長を退任すると、今度は私財を投じてインフィニティ国際学院を創設し、22年春までに初等部(小学校)から高等部(高校)までの一貫教育体制を整えた。
大谷さんが考える日本の教育の課題は、インプット型、偏差値型の教育を通じて、子どもたちがレールを外れることに強い恐怖を抱きやすくなってしまっていること。既存の学校に教育イノベーションを起こす余裕がないなら、新たな学校を通じて前例を作り、現状を打破しようと考えたのだという。目標は起業家育成から、教育改革、中年以降のライフシフト支援、地方創生にも広がる。

大谷さんは、これまでのキャリアや起業家育成の経験を振り返りつつ、会社員のライフシフトには「キャラ変」と「仲間づくり」が特に重要だと語る。組織人として固定していたそれまでのキャラクターを変えることを恐れず、人生の意義を考えたときにやりたいことを、ともに取り組める仲間を探す。社内だけではなく、外にも人脈を広げる努力は重要だと指摘する。

苦節30年、もがき続けたライフシフト


三和交通(横浜市)のタクシー運転手、長谷川健一さん(55)は4回のライフシフトを経験してきた。住宅メーカーの営業職を振り出しに、実家の工務店、電話・通信代理店の運営、配送会社での勤務とその業種は多岐にわたる。

30年余りのキャリアは、離婚や代理店の倒産、業者によるカネの持ち逃げ、顧客との裁判と壮絶な出来事の連続だった。「業者や顧客に対して、コミュニケーションが不足していたのかもしれない」と振り返る。目の前の仕事に追われ、経営者なのに業務全体へ目が行き届いていなかった。

どん底から抜け出せたのは、半導体製造会社を経営していた、大学時代の先輩の一言だった。「もがいてもがいて、何でもいいからお金になる仕事を取ってくるのが経営者の責任だ」。先輩は業界では決して本丸とは見なされないパチンコ機器用の半導体を受注するなどして経営をやりくりしていた。「俺ももがかないと」。長谷川さんは奮起した。
50歳を超えても長年働けて、自分の能力に見合った給料がもらえる仕事として三和交通に入社したのは、折しも新型コロナウイルス禍まっただ中の2020年4月。タクシー業界にとって氷河期だったが、毎日道路を走ってはノートをとり続けた。

「給料日後の何曜日にはAエリアの需要が多い」「BからCに行くにはDルートが最安」。カーナビでは得られない情報も蓄積してきたかいあって、乗客からは「今までで最安だ」「安全運転なのに早かった」と感謝される。

タクシー運転手への転身が正解かは「まだ分からない」。嫌なことも多いが、働いた分だけ肥やしになり、乗客ごとのニーズをくみ取って運転できるやりがいを感じる。正解のないライフシフト。数を重ねるからこそ見えてくる世界もあるのだ。

(日経ビジネス 武田安恵、馬塲貴子、生田弦己)

[日経ビジネス電子版 2022年8月9日の記事を再構成]

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