/

2代目・塚本定右衛門氏 乱世に乗じ商才発揮

2代目塚本定右衛門は生涯において2度大きなリスクにチャレンジ、身代を膨らました。手堅い商いを身上にする近江商人たる塚本だが、数少ない乱世型の"あきんど"であった。

安政2(1855)年、2代目塚本定右衛門は29歳になっていた。家督を継承して3年ばかりたっていたが、安政の大地震が勃発する。

この時近江商人たちは江戸壊滅の報に江戸からの撤退を急いだ。1万人を超す死者が出た大地震では、江戸の復興需要は期待できないとみて、続々商談を中止する中にあって、定右衛門は一人、江戸及び、その周辺の物資不足を狙って大阪から太物呉服類を船に満載して江戸に向かった。

まさに相場用語の一丁目一番地、「人の往く裏に道あり花のヤマ」であったろう。この時のもうけは一挙に100万両に達したといわれる。塚本が試みた2度目の大勝負、それは維新後の通貨市場であった。

「明治初年、新政府の発行せる金札を安値で買いまくったことである。当時、新政府は財政窮乏の打開策として金札を盛んに発行したが、一般の民衆はこれを信用するに躊躇し、ためにその通用力は硬貨の半額以下に低落するという状態であった。彼はこの金札を買い占めて時期の到来を待っていたが、果たして明治2年の暮れには、政府は平価の切り下げを断行したので塚本は一挙にして170万-180万円の利得を収めた」(実業之世界社編「財界物故傑物伝」)

明治5(1872)年、2代目定右衛門は東京に拠点を築く。日本橋伊勢町に塚本商店をオープン、絹・毛・綿織物の総合問屋として得意先を広げていった。2代目の隠居後は次男の定治(文久元年生)が家督を継ぎ、3代目定右衛門を襲名。3代目もなかなかのやり手で、塚本商店の支配人として業績拡充を進め、同26年には個人商店から、塚本合名に組織を改め、同38年日露戦争景気の頂点で2代目は他界した。

大正7(1918)年、財産管理のため資本金600万円で塚本同族合名を設立、同9年には本体の塚本合名を株式会社に変更した。同14年には3代目が隠居、家督は長男定次郎が継ぎ、4代目定右衛門を名乗る。

この時点で、初代定右衛門が天秤棒担いで苦闘していた時代から100年以上たっている。「近江商人」(平瀬光慶著)によると初代は「天秤棒を肩にし、千辛を忍び万苦に耐え、山河を渉猟し、奥羽・関東に行商し、熱誠業を励み、ついに成功した」とある。=敬称略

信条
・遺訓をよく守り、勤倹父に劣らず、大いに産を成す
・義に勇み、慈悲深く、公共事業に巨費を投じた
・積みて散じ、散じて積み、徳望一世に高し(「近江商人」)
(つかもと さだえもん 1826-1905)
文政9(1826)年滋賀県出身。幼名を与吉と言い、26歳の時、相続して定右衛門を襲名。幕末から明治維新にかけて、世情は大混乱期を迎えるが、この乱世に乗じて商才を発揮、敏しょうに商売して巨利を占めた。特記されるべきは、安政2(1855)年10月2日、江戸及びその周辺を襲った大地震(安政の大地震、死者1万余人)を期して江戸に進出したこと、維新後、明治政府発行の紙幣を買いまくって巨利を占めた。初代から引き継いだ資産を数百倍にして、次男の定治(3代目定右衛門)に譲った。2代目の葬儀には一般会葬者が3000人を超した。

すべての記事が読み放題
有料会員が初回1カ月無料

関連トピック

トピックをフォローすると、新着情報のチェックやまとめ読みがしやすくなります。

セレクション

新着

注目

ビジネス

ライフスタイル

新着

注目

ビジネス

ライフスタイル

新着

注目

ビジネス

ライフスタイル

フォローする
有料会員の方のみご利用になれます。気になる連載・コラム・キーワードをフォローすると、「Myニュース」でまとめよみができます。
新規会員登録ログイン
記事を保存する
有料会員の方のみご利用になれます。保存した記事はスマホやタブレットでもご覧いただけます。
新規会員登録ログイン
Think! の投稿を読む
記事と併せて、エキスパート(専門家)のひとこと解説や分析を読むことができます。会員の方のみご利用になれます。
新規会員登録 (無料)ログイン
図表を保存する
有料会員の方のみご利用になれます。保存した図表はスマホやタブレットでもご覧いただけます。
新規会員登録ログイン