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1991年の外交文書公開 米国・ソ連と相次ぎ緊迫の交渉

外務省は21日、1991年に作成した外交文書を公開した。湾岸戦争の際の自衛隊派遣に関する政府内のやりとりなどが記載されている。米国との間で懸案だったコメの関税化や、ソ連との北方領土の返還交渉を巡る記録も明らかになった。

▶外交文書公開 外務省は1971年に外交史料館で外交記録の一般公開を始めた。当初は戦前期の文書に限っていたが、76年には戦後期も公開を開始した。
2010年に当時の民主党政権による日米核密約問題の調査をきっかけとして作成や取得から30年がたった文書の原則公開が決まった。現在の外交交渉への影響が懸念される部分は非公開となる。

消されたコメ関税化要求 海部・ブッシュ会談「存在しない記録に」

1991年7月に海部俊樹首相が訪米しブッシュ(父)大統領と会談した際、コメの関税化を求められたやりとりを外務省が意図的に伏せたことが分かった。所管の農林水産省に報告しない「存在しない記録」として処理した。

自民党内の基盤が弱い海部氏が、コメ市場開放につながる関税化に対する農水族議員からの反発を懸念した背景がうかがえる。

21日公開の外交文書で明らかになった。当時、外務省北米局長で会談内容を記者に説明した松浦晃一郎氏は共同通信の取材に「コメの関税化の話題が出たと言わないよう指示を受けた」と証言。「政局への影響を気にしたのではないか」と語った。

会談はメーン州ケネバンクポートで開催。日本側の同席者は外務審議官だった小和田恒氏と通訳のみで松浦氏は入れなかった。ブッシュ氏は「米国は関税化を支持している」と主張しつつ「政治的圧力を受けているのを承知している」と海部氏を気にかけた。

海部氏は「関税化でなければ解決にならないと言われてもどうしてもお受けすることはできず、答えは否定的にならざるを得ない」と回答。衆参ねじれ国会や、衆院選に小選挙区を導入する政治改革関連法案を抱えた政治状況も吐露した。

文書には手書きで「存在しない記録」「農水省にも話をしてない」と記入された。外務省に送った正式な公電に、このやりとりの部分はなかった。松浦氏が記者団に「関税化という言葉は使われなかった」と説明した記録もあった。

コメ問題を巡っては、日本は93年のウルグアイ・ラウンド合意で、関税化しない代わりにミニマムアクセス(最低輸入量)を選択。年々増加する輸入量を抑えるため、99年に関税化を受け入れた。

ブッシュ大統領図書館所蔵の会談議事録でも、関税化を巡るやりとりは黒塗りにされていた。

「掃海部隊、地味で損な役割」 米軍、自衛隊ペルシャ湾派遣巡り

海上自衛隊掃海部隊による1991年のペルシャ湾派遣について、米軍幹部が「大きな意義がある」と認めつつ「極めて地味で、損な役割しか残っていない」と日本側に伝えていたことが21日公開の外交文書で分かった。部隊の指揮官を務めた落合畯氏(83)は「海部俊樹首相の派遣判断が遅れに遅れた」と振り返った。

発言したのは米中央軍海軍部隊司令官のテーラー海軍少将。91年4月24日に日本が派遣表明する直前の20日、米軍艦艇上でのレセプションで駐バーレーン日本大使に述べた。「派遣は確かに遅すぎた」とも指摘した。

クウェートは多国籍軍により2月26日に解放された。落合氏によると、派遣の本格的な準備が始まったのは3月下旬以降だった。出港は4月26日。ペルシャ湾での任務開始は6月となり「一番後に来たのが日本で、ややこしい所しか残っていなかった」(落合氏)。

海自に割り当てられた「第10機雷危険区域」は、近くの河口から砂漠の砂が流れ込んで視界が極端に悪く、自分の手すら見えないほど。潮流が速い上、海底を数多く走る石油パイプラインを傷つけないように作業する必要にも迫られた。

欧米各国が先端機器を駆使して作業を進める一方、そうした装備を持たない海自は、人員が潜って機雷を確認。装備の古さを隊員の練度で補ったが出遅れは否めなかった。各国が処理した計1200個以上の機雷のうち海自が担ったのは34個だった。

落合氏は「装備は欧米各国に劣っていたが、隊員は使命感と責任感でやり遂げた」と振り返った。現役の海自若手幹部は「世界有数と自負していた自分たちの能力が、実は井の中のかわずだと思い知らされたと今も語り継がれている」と明かす。

派遣後、自衛隊は国際貢献に傾斜。92年には国連平和維持活動(PKO)協力法が成立した。インド洋、イラクなどでの活動を経て、自衛隊の海外展開は常態化している。落合氏は「ペルシャ湾派遣は自衛隊の国際貢献が通常任務になる第一歩だった」と語った。

ロシアの侵攻、火種は30年前から ウクライナ独立 民族主義に反発

1991年8月のウクライナの独立宣言を巡り、ソ連カザフ共和国のナザルバエフ大統領が枝村純郎駐ソ連大使に対し、ウクライナの独立はソ連への反発というより、連邦内で力を増し、民族主義的傾向を強めたロシア共和国への反発だとの考えを示していたことが、21日公開の外交文書で分かった。

現在のロシアのウクライナ侵攻につながる対立の火種が、当時から顕在化していたことが改めて示された。ナザルバエフ氏はソ連末期の有力政治家の一人で、2019年まで独立カザフスタンの大統領を務めた。

2人はソ連崩壊を決定づけた91年8月のクーデター未遂事件から間もない8月27日、モスクワで会談した。

ナザルバエフ氏は、ロシアによるソ連資産の接収やロシア人中心の人事、さらに独立するソ連構成共和国への領土請求権を主張した点を「ロシア帝国が常に求めた」力の信奉と批判した。

枝村氏が8月24日のウクライナ独立宣言は「連邦に対してではなく、ロシアに反対する趣旨か」と尋ねると、ナザルバエフ氏は「全くその通り」「ついこの間まで完全独立など考えてもいなかった」と答えた。

その上でナザルバエフ氏は「われわれはロシア・ナショナリズムに懸念を持っている」と述べた。ロシアの動きを懸念しているのはソ連内の「全ての共和国」だとした。カザフ自体は同年12月に独立宣言した。

ウクライナやカザフにはロシア人が多数暮らす地域があり、両共和国はロシアからの領土要求に神経をとがらせていた。ロシアは2014年にウクライナ南部クリミア、22年に東部などの併合を一方的に宣言した。

ウクライナはバルト3国、グルジア(現ジョージア)に次ぎ、ソ連15共和国中5番目に独立を宣言。ロシアに次ぐ第2の大国の宣言は末期のソ連を激しく揺さぶった。

領土問題「釈迦も解決願う」 海部・ゴルバチョフ会談

1991年4月16~18日の日ソ首脳会談。海部俊樹首相が北方領土問題解決に向け、平和条約締結後の色丹、歯舞の2島引き渡しを記した日ソ共同宣言(56年)は有効と認めるようゴルバチョフ大統領に迫った経緯の一端が21日公開の外交文書で分かった。

海部氏は、両国関係発展には「キリストもお釈迦様も平和条約締結しかないと見ている」と訴え、条約交渉の基礎となる共同宣言の有効性確認を強く求めた。

ゴルバチョフ氏は確認を拒否。その理由の説明部分の文書は大半が黒塗りで隠されているが、同氏は回想録で「調印から数十年間、実際には演じなかった(平和条約を巡る)役割を56年宣言に付与することになる」などと主張していた。

ソ連から初めて来日した国家元首に対し、海部氏は序盤から安定的関係の前提は平和条約であり「四島のわが国の主権を承認することが鍵だ」と主張。3日間で6回開いた首脳会談で、同氏が「平和条約」「共同宣言」と何度も口にしたことも判明した。

経済関係拡大を優先するゴルバチョフ氏は、安定した経済関係のない日ソ関係は水の上を歩くようなものだとし、それができるのは「釈迦はどうか知らないが、私ども(ソ連側)ではキリストだけだ」と強調した。

「双方が歩み寄る措置を取るべきだ」としつつ、共同宣言の有効性問題は第3回会談で「論拠は出し尽くし、予備はない」と断言。しかし、海部氏はめげずに会談を重ねた。

外務省ソ連課長として会談に出席した東郷和彦氏は、ソ連末期で「ゴルバチョフ氏の政治的立場は弱くなっていた」と指摘。宣言確認は2島が日本領になるとのメッセージ性があり、内政的にもできなかったと解説する。

海部氏は、領土問題の対象を「歯舞と色丹、国後、択捉の四島」と共同声明に明記する最重要の目標は達成。東郷氏は「『日本は取れる以上のものを取った』というのがゴルバチョフ氏の本音だろう」とし「権力が強い時だったら成果は違ったかもしれない」と語った。

ゴルバチョフ氏 日本が生存確認

1991年8月19日、ソ連崩壊の発端となった共産党保守派によるクーデター未遂事件。軟禁状態にあったゴルバチョフ大統領の安否が取り沙汰される中、モスクワの日本大使館員の情報で世界に先駆けて日本政府が生存を確認し、クーデター失敗の可能性も把握していたことが21日公開の外交文書で分かった。

公電によると91年8月20日、在ソ連(在ロシア)大使館員だった作家の佐藤優氏が、クーデター首謀者に近い共産党幹部と面会。ゴルバチョフ氏の「所在」「生存」を聞いたところ「クリミアの別荘で静養を続けている。重いぎっくり腰だが意識は正常」との回答を得た。

当時は各国がゴルバチョフ氏の安否やクーデターの動向を注視。日本政府の情勢判断が遅いとの批判もあったが、実際には正確な情報をつかみ、推移を見守っていたことがうかがえる。

佐藤氏は共同通信の取材に「実際は『ゴルバチョフを殺したのか』と聞いた」と明かす。党幹部は首を横に振った上で「現政権では、食べ物すら外国に依存する三流国になる」と強調。クーデターを全面支持する文書を作成中で「あすの朝刊に文書が載ればわれわれの勝利だ」と続けた。一方で失敗の可能性も口にした。

佐藤氏は党幹部に、日本の大使館員である自分に「なぜ情報を教えてくれたのか」と疑問をぶつけた。「危機的な状況になると、日本人やロシア人など関係なく、真実を誰かに語りたい欲望が出てくるものだ」と答えが返ってきたという。

クーデターは、ロシア共和国のエリツィン大統領らの抵抗もあり失敗。ゴルバチョフ氏はモスクワに帰還したが政治的権威を失い、同12月に辞任、ソ連は消滅した。〔共同〕

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