自己肯定感の落とし穴 それ「自我肯定」じゃない?
「自我」を肯定しようとして「自己否定感」に苦しんでいる
最近、気がかりなのは「自己肯定感」という言葉がさかんに使われていることです。インターネットで検索すると「自己肯定感を高める方法」「自己肯定感が低い理由」といった文字列が次々にヒットします。自己の肯定も否定も主観的な行いですから、たいていの場合、そこに明確な根拠はありません。多くの人が単なる自分の思い込みによるネガティブな感情に苦しんでいるのです。
問題の根っこをどこまでもたどると、多くの人が心の柔軟性を失っていること、そして自己の捉え方が凝り固まっていることに行き着くのではないかと思います。「心にシコリを抱えている」といってもいいでしょう。思考回路が硬直すれば、視野も発想の幅も狭まり、他者を思いやる余裕がうせ、時には排他性が芽を吹きます。
目の前の閉塞状態を打ち破るアイデアも、パワーもなかなか湧いてきません。「自己肯定感の低さ」も、原因はそこにあるのではないでしょうか。今までにやってきたこと、守ってきたこと、信じてきたことを、練るだけ練って固めた何ものかを、頭の真ん中に据えて、それを「自己」だと決めつけていませんか。極めて狭いスペースに閉じ込めた、まるで梅干しの種のようなそれは「自己」というより「自我」といったほうがしっくりきます。

私は、凝り固めた「自我」を肯定するか否定するかという問いの設定自体が間違っているのではないかと思います。「自我」という言葉は、どちらかというとネガティブなイメージ(我を張る、わがまま、エゴイズム……)をまとっていますから、容易に肯定できません。10人いたら9人までが自動的に否定するでしょう。多くの人が「自己否定感」にさいなまれるのも、自然な成り行きではないでしょうか。
禅的な思考法の核心は「問う」ことにある
こういう時代にこそ、禅的な心との付き合い方、思考回路の回し方が有効なのではないか? 僧侶の端くれの私は、そう感じています。「禅」イコール「坐禅」とお考えだとしたら、それは違います。坐禅は禅の精神を身体を使って実践するものの一つに過ぎません。禅はもっと広い概念です。いうなれば生き方、世界と人生に向き合う態度。その営みには、人生を「よく生きる」ための智慧(ちえ)と技術が詰まっています。
ビジネスも私生活も充実に導くたくさんの要素が、そこにはあります。瞑想(めいそう)に代表される「心の安定」といったものも大切ですが、私がフォーカスするのは、心の安定の「その先」への導きという側面です。
すなわち、禅的な思考法の活用です。その核心は「問う」ことにあります。言葉の意味にこだわって、自らに問う、他者に問う。答えが出ようが出まいが問い続ける、問い抜く。突き詰めれば「我を忘れる」境地に至るこのプロセスが、自分の枠を取っ払い、心の幅を広げ、発想の自由度を高め、人生を豊かにします。

禅が時代を超えて続いている理由
論理性と合理性、そして定量的なデータを偏重する現代的思考の限界が、閉塞状態を招いている――そうした文脈で、禅的な思考やアート思考の有効性が叫ばれることがあります。賛意を表すると同時に、一つ補足したいのは、禅を「非論理的」と断じることの誤りです。禅の態度は矛盾を特別に排除せず、見ようによっては放置します。そこに非論理性ばかりを見るのは、少しばかり近視眼的に過ぎるのではないでしょうか。
矛盾を包み込みながら、論理のみに縛られず、全体をしっかり見守るのが禅的な態度。ささいな食い違いに目くじらを立てず、むしろそこに豊かな可能性の芽を見る柔らかさ、優しさにこそ、禅が時代を超えて続いている理由があります。
(構成 手代木建、日経xwoman編集部)

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