ミケランジェロも魅了 華麗なる成功を収めた女性画家

ルネサンス期のイタリアに生まれたソフォニスバ・アングイッソラは、あらゆる点で傑出した存在だった。著名な芸術家はほぼ全て男性という時代において、ごく一部の女性画家しか手にできなかった成功を収め、後に世界中の美術館に所蔵されることになる多くの絵画を残した。そのたぐいまれな才能はミケランジェロをも魅了し、その後27歳でマドリードに招かれ、ヨーロッパ随一の宮廷画家として名をはせた。彼女の作品は、アンソニー・ヴァン・ダイクやカラバッジョといった後世のバロック画家たちにも大きな影響を与えた。
若き才能
ソフォニスバは、1532年ごろにイタリア北部の町クレモナで、ビアンカ・ポンツォーネとアミルカーレ・アングイッソラの第1子として誕生した。ソフォニスバには5人の妹と1人の弟がいたが、父親のアミルカーレは、息子だけでなく娘たちにも高い教育を受けさせ、芸術を学ぶことを奨励した。なかでも、ソフォニスバの才能はやがて無視できないものになっていった。


16世紀のイタリアでは、若い女性が画家の道を志しても、プロのアトリエに弟子入りすることは認められず、男性の親族から指導を受けるほかなかった。しかし、芸術家ではなかったアミルカーレには娘を教えることができなかった。そこでソフォニスバは当時としては珍しく、14歳頃に画家のベルナルディーノ・カンピに師事することになった。

ミケランジェロとの出会い
20代前半までカンピの指導を受けたソフォニスバは、その後ベルナルディーノ・ガッティの下で学び続けていたが、22歳の時にミケランジェロ・ブオナローティに出会う。ソフォニスバの才能に感銘を受けたミケランジェロは、彼女の学びを支援したいと申し出、作品の批評やフィードバックを与えるようになった。
1562年、ミケランジェロの友人がフィレンツェの名門メディチ家のコジモ1世に宛てて書いた手紙に、「ザリガニに噛(か)まれた少年」と題されたソフォニスバのスケッチが1枚同封されていた。その友人は手紙のなかで、スケッチについて次のように説明している。「ソフォニスバの『笑う少女』の絵を見たミケランジェロが、『笑顔よりも泣き顔の方が難しい。今度は泣いている少年の絵を描いたらどうだ』と勧めたところ、ソフォニスバは弟をわざと泣かせてこの絵を描いたそうです」
ミケランジェロの作品にも似たような表情の人物画がいくつかある。ソフォニスバも、それらの絵を見たことがあったのだろう。それから40年後、今度はソフォニスバの描いたしぐさと表情に影響を受けたカラバッジョが、「トカゲに噛まれた少年」(1595年ごろ)を完成させた。カラバッジョの作品のなかでも特に表情豊かな人物画として知られている。


スペイン王室へ
1559年、ソフォニスバの青春時代を通じて長く続いていたイタリア戦争が終結した。当時、クレモナのあったミラノ公国は、スペインの支配を受けていた。ソフォニスバの才能に目を留めたスペインのミラノ総督は、宮廷画家としてスペイン国王フェリペ2世にソフォニスバを推薦した。こうしてソフォニスバは、スペインのマドリードにある王宮へ招かれる。正式には、フェリペ2世がフランスから新しく迎えたエリザベート(スペイン語ではイサベル)・ヴァロワ妃の女官という立場だったが、実際の仕事は王室の人々の肖像画やその他の絵を描くことだった。
ソフォニスバのマドリード滞在は長期にわたり、親しい友人にも恵まれた。特に、わずか14歳で嫁入りしたイサベル妃と親交を深め、王妃が妊娠中もそばに付き添った。また、イサベル・クララ・エウヘニア王女とカタリーナ・ミカエラ王女に美術を教えた。


王室一家と親しい関係を築いたことで、ソフォニスバは厳格な基準が求められるなかにも、表現豊かで温かみのある宮廷肖像画を描くことができたのだろう。
ところが1568年、スペイン王室に悲劇が訪れる。23歳だったイサベル妃が、出産により死亡したのだ。親友の死をソフォニスバは深く嘆き悲しんだと、イタリアの大使たちは報告している。その後、王妃の側近の多くがマドリードを離れたが、ソフォニスバは、王女たちの教師を続けてほしいとのフェリペ2世の要請で、宮廷にとどまった。

ソフォニスバは宮廷において高い評価を受け、女性画家としてまれにみる名声を手に入れた。スペイン王室からソフォニスバに与えられた多額の年金が、その地位がいかに高かったかを示している。
謎の画家、謎の女性
現在、多くの美術史家は、ソフォニスバ・アングイッソラの作品のいくつかが、宮廷画家の長であったアロンソ・サンチェス・コエリョなど別の男性画家のものだと誤解されてきたと考えている。
例えば、「白貂(しろてん)の毛皮をまとう貴婦人」と題された絵画は、スペインに住んでいたクレタ島出身の画家エル・グレコのものとされてきたが、近年になってソフォニスバによるものではないかという意見が現れた。そこで2019年、絵の所有者である英グラスゴーのポロック・ハウスとマドリードにあるプラド美術館が共同で調査を実施した。その結果は、エル・グレコでもソフォニスバでもなく、アロンソ・サンチェス・コエリョが作者であるというものだった。


この結論は多くの歴史家に受け入れられたが、それでもやはりソフォニスバが作者だとする意見も根強い。絵のモデルとなった女性の正体も不明だが、作者がソフォニスバだと考える歴史家は、モデルはフェリペ2世とイサベル王妃の娘カタリーナ・ミカエラだとしている。だとすると、気になるのはもう一枚のカタリーナ王女の肖像画だ。こちらは、プラド美術館によるとサンチェス・コエリョの作品だというが、これもまた別の専門家はソフォニスバが描いたに違いないと主張している。この絵が描かれた1584年、カタリーナ王女はマドリードを離れてサボワに滞在していた。そしてサボワは、ソフォニスバが当時住んでいたジェノバに近い。
その後の人生
1573年、フェリペ2世は持参金を与え、ソフォニスバとシチリア島の貴族ファブリツィオ・モンカーダとの結婚を認めた。マドリードで行われた結婚式には、当時6歳と7歳だった王女たちも参列した。夫婦はシチリアに新居を構えたが、1579年、ファブリツィオが海賊によって殺され、結婚生活は突然終わりを迎えた。
ソフォニスバは家族がいるイタリア北部に戻ったが、後に再婚してジェノバに住んだ。この時に、成人したカタリーナ王女を描いた可能性がある。ジェノバには35年住み、80代に入ってほとんど目が見えなくなると、2番目の夫とともにシチリアに戻った。

1624年、若きバロック画家アンソニー・ヴァン・ダイクは、スペイン国王を描き、ミケランジェロとも交流があったという女性画家に興味を持ち、ソフォニスバを訪ねた。後に年老いたソフォニスバの肖像画を描いたヴァン・ダイクは、スケッチブックにこの時の訪問について書き残している。「彼女は、自分がいかに奇跡的な肖像画家であったかを振り返り、視力の衰えにより絵が描けなくなってしまったことが人生で最大の苦しみだったと語った。手の方はいまだに震えることもなく、しっかりしていた」

1625年、ソフォニスバ・アングイッソラは、シチリア島パレルモで93年の生涯を閉じた。サン・ジョルジョ・デイ・ジェノヴェージ教会にあるソフォニスバの墓には、2番目の夫が書いた墓碑銘が刻まれている。「ソフォニスバへ。その美しさと天賦の才能で世界に輝いた女性。人間の姿を描くことにおいては、同時代の何者もあなたに及ばない」
(文 ALESSANDRA PAGANO、訳 ルーバー荒井ハンナ、日経ナショナル ジオグラフィック)
[ナショナル ジオグラフィック 日本版サイト 2022年6月15日付]
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