その伝説は本当か? 歴史上の驚くべき女性戦士たち

歴史書には戦士があふれている。ほとんどが男性だ。しかし、長い歴史においては女性たちも、槍(やり)や剣、拳銃などで武装して男たちを相手に戦ってきた。古代のケルトの女王は実在し、武勇でその名を馳(は)せた。東洋の伝説の女武者は敵兵を斬り倒し、首をひねって殺すほどの強さを誇った。ナショナル ジオグラフィック別冊『伝説の謎 事実かそれとも空想か』から、史上最も驚くべき女性戦士たちを紹介しよう。
復讐(ふくしゅう)に燃えたケルトの女王ブーディカ
今から2000年近く前、現在の英国に当たる土地で、ローマ帝国の支配に抗って血みどろの大反乱を起こし、伝説となった女王がいた。イケニ族の女王ブーディカだ。
彼女の夫であるプラスタグス王が死ぬと、イケニ族の土地(現在の東アングリア)はローマ帝国に奪われ、ブーディカはむちで打たれ、娘たちは陵辱された。復讐に燃えるブーディカは挙兵してコルチェスター、ロンディニウム(ロンドン)、ウェルラミウム(セント・オールバンズ)を破壊した。
「背は極めて高く、容貌は身の毛がよだつほど恐ろしく、まなざしは獰猛(どうもう)この上なく、声は耳障りで、どこまでも黄褐色の髪が腰まで垂れていた」。古代ローマの歴史家カッシウス・ディオはケルトの女王ブーディカをこう記述した。
そして紀元60年か61年にローマの将軍スエトニウスと戦いになり、仕返しを受けた。ブーディカは兵たちに戦うか奴隷に落ちるかしか道はないと檄を飛ばし、自らチャリオット(戦車)を駆って戦いを指揮したものの敗れた。女王は毒をあおったとタキトゥスは書いているが、真相はわからない。

源平の戦いで活躍、巴御前
12世紀の日本では、武士が台頭していた。彼らは質実剛健を旨とし、忠義に篤(あつ)く、ほかの武士たちを従えようと戦った。そんななか、世に名を轟(とどろ)かせた女武者もいた。巴御前である。巴御前の話は『平家物語』、フィクションを織り交ぜつつ12世紀に起こった源平の戦いを描いた軍記物語によって広く知られる。
この源平の戦いでは武家の棟梁(とうりょう)の座を巡って平家と源氏の2つの武門が激しく争った。源氏側の有力武将の1人に木曾義仲がいた(源義仲とも呼ばれる)。この義仲の戦いに付き従ったのが、彼の恋人ないし妻だった巴御前である。
平家物語では巴御前を義仲の世話係(便女)とし、「色白く髪長く、容顔まことにすぐれたり」と記述する一方、馬術に長(た)け、「究竟(くっきょう)の荒馬乗り、悪所落し(並外れた荒馬乗りで、難所を駆け下った)」という。

源氏が平家を滅ぼして戦いに勝利したのもつかの間、今度は源氏同士の内輪もめが始まる。義仲は1184年の粟津の戦いで従兄弟(いとこ)と戦うことになった。巴は義仲とともに戦うが、奮戦もかなわず、残る手勢がわずか5騎となってしまう。
義仲は女性を連れて討ち死にしたとあっては末代までの恥と、巴に逃げるように命じる。すると彼女は最後にもう一度と、怪力で知られる敵将に戦いを挑んだ。そして「むずと取つて引き落とし、我が乗つたる鞍の前輪に押し付けて、ちつとも動かさず、首をねぢ斬つて捨ててんげり(むずと組んで引き落とし、自分が乗った鞍(くら)の前輪に押し付けて、ぴくりとも身動きさせず、首をねじ斬って捨ててしまった)」。巴は鎧(よろい)を脱ぎ捨てて落ち延び、歴史から姿を消した。
「神の声を聞いた」ジャンヌ・ダルク
1429年2月、フランスの王位継承者シャルル・ド・バロワの前に、17歳の農民の娘が歩み出た。ジャンヌ・ダルクだ。そして彼女は、王太子に「神の名においてまかり越しました。あなた様と王国を救うために」と、言った。教会当局の取り調べを受けた後、兵を集めて進撃する許可が与えられた。
当時、フランスと英国は90年以上にわたって戦争状態にあり(いわゆる「百年戦争」)、フランスは領土の多くを英国に奪われていた。しかも古くからフランス国王の戴冠式が行われていたランスまで失い、シャルルは王位に就くことさえできない有り様だった。しかし、信心深い少女がこの絶望的な状況に一筋の希望をもたらした。

ジャンヌが率いる軍勢は包囲されていたオルレアンの町を解放し、ロワール川沿いにあったほかの町からも敵を一掃した。1429年7月にランスで、ついにシャルル7世の戴冠式が行われた。だが、そこから戦いはフランスの劣勢へと転じ、1430年にジャンヌを敵に捕らえられてしまう。
英国側は、異端、魔女妖術、悪魔との会話、男装をはじめとする、さまざまな罪でジャンヌを告発。結果、異端と宣告され、ジャンヌ・ダルクは1431年5月30日に生きたまま火あぶりにされた。その後、フランスは徐々に領土を奪い返し、最終的にほぼ完全にイギリス軍を駆逐すると、シャルル7世はジャンヌの異端判決を無効とした。1920年にジャンヌは聖ジャンヌ・ダルクとしてカトリック教会の聖人に列聖された。

反乱軍のリーダー、唐賽児
13世紀から19世紀にかけて、中国の歴代皇帝を繰り返し脅かした白蓮教(びゃくれんきょう)という宗教結社があった。仏教の教えを基本とし、男も女も皆平等で、仏陀(ブッダ)がこの世に再び訪れると説き、農民たちの心をつかんだ。皇帝は白蓮教を邪教として弾圧した。
だが、それは逆効果だった。信者は地下に潜り、反感を募らせ、幾度となく武装蜂起を起こした。白蓮教徒の反乱においては傑出した指導者が何人か現れた。その1人が15世紀の反乱を率いた唐賽児(とうさいじ)である。彼女は不思議な力を使い、魔女だともいわれていた。

明王朝の時代、庶民は苦しい生活を強いられ、唐賽児自身も両親と夫を早くに亡くしていたという。信心深い仏教徒だった唐賽児は1420年に農民を集めて挙兵し、明軍を相手に善戦した。一部の記録では、紙人形から空飛ぶ悪魔の軍勢を生み出して戦いに勝ったとされている。だが、最終的に反乱は鎮圧された。
唐賽児は逃亡し、二度と見つからなかった。ある話によると捕らえられはしたが、どんな武器を使っても殺すどころか、傷さえつけられなかったという。また別の話では、尼に化け、明王朝側が周辺にいる尼を全員捕らえて一人残らず調べたものの、見つからなかったそうだ。
実在はしなかった? 木蘭(ムーラン)

中国では学校で教えるので有名だが、欧米で知名度が上がったのは1998年のディズニー映画『ムーラン』のおかげだろう。彼女の物語は少なくとも6世紀までさかのぼり、11世紀に「木蘭詩(木蘭辞)」として詩集に収められた。この表現豊かな詩によると、木蘭という娘が息子のない年老いた父親の代わりに兵士として従軍し、12年にわたって戦い続けた。
皇帝に武功の褒美を問われ、木蘭は「家に戻るための駿馬(しゅんめ)だけで結構です」と答えた。そして、女性の服に着替えて髪を整えた。見違えた姿に古くからの戦友はどぎまぎした。
ただ、木蘭(花木蘭)が実在したことを示す歴史的証拠はない。
(文 パトリシア S. ダニエルズ、訳 竹花秀春、日経ナショナル ジオグラフィック)
[ナショナル ジオグラフィック 日本版サイト 2022年8月25日付]
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