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一休さん、刀携え堺を行く 根は純粋な風狂僧

時を刻む

室町時代、朱鞘(しゅざや)の長い太刀を携えて堺の街を歩き回る僧がいた。その人の名は一休宗純。殺生を禁じられた僧侶が、なぜ刀を持っていたのか。奇異な言動が目立つにもかかわらず、様々な人から慕われたのはなぜか。歩んだ道のりを追い、混迷の時代に伝えようとした教えや人柄を探った。

朱鞘の長い太刀を配した一休の肖像画(酬恩庵一休寺蔵)

奇行を重ねた「風狂」

太刀を持つ理由を聞かれた一休は、朱塗りの鞘を抜いて答えた。「これは木刀で人を斬れない。今どきの僧と同じで、見かけは立派でも役に立たない」

めでたい正月にドクロをつえの先に付けて歩き「人間いずれはこんな姿になる」と語ったという話も伝わる。アニメで有名な頓知小僧は後世の創作で、実在の一休は堺を訪れた40歳前後から奇行が目立ったといわれる。肉食や飲酒、女犯(にょぼん)など戒律を破る行為でも知られた。

その生涯は最初から波乱に満ちている。南北朝合一から2年後の1394年に京都で生まれ、父は北朝の後小松天皇、母は南朝の一族といわれる。一休は6歳で母から離され、禅寺に入った。こんな出自を知ったら普通の生き方は難しいだろう。

晩年を過ごした京都府京田辺市の酬恩庵(しゅうおんあん、通称一休寺)。一休が眠る墓所は宮内庁が管理し、門扉には菊の紋がある。酬恩庵の田辺宗一住職は「周囲も天皇の子と知っていたから、様々な行いに寛大だったのではないか」とみる。

酬恩庵にある一休の墓所。門扉に菊の紋があり、宮内庁が管理。「後小松天皇の皇子なので……」という説明がある

ただ、「風狂」と呼ばれた一休に周囲の人々は寛大なだけでなく、魅了されてもいた。京都の大徳寺が応仁・文明の乱の戦火に見舞われると、一休は住吉大社(大阪市)のそばに移り住み、大徳寺復興の拠点とした。その際、住吉大社の長である宮司の津守国昭が周囲の反対を押し切り、出家して一休に弟子入りしたとの記録が残る。一休が京都に帰るときは村人たちが泣いてすがったという。

日明貿易で富を蓄えた尾和宗臨など堺の豪商も一休を慕い、その経済力で大徳寺再建に貢献した。住吉大社の権禰宜(ごんねぎ)、小出英詞氏は「自治を重んじた堺の商人にとって、権力にこびず、自由に生きた一休は魅力的だったのだろう」と話す。

あふれる慈悲の心

文化人もまた一休にひきつけられた。酬恩庵の中に結ばれた虎丘庵に集まったのは、「わび茶の祖」の村田珠光、能楽の金春禅竹、絵師の曽我蛇足ら。田辺住職は「一休と村田珠光の出会いがなければ、今日の茶道があったかどうか。後世の千利休も一休を尊敬していた」と言う。

人々はなぜ、これほど一休を慕ったのか。一休が開祖で、没後に弟子や豪商が再建したとされる大徳寺真珠庵の山田宗正住職はこう話す。「破天荒な破戒僧というイメージが強いが、本質は逆。思い切り真面目で、慈悲の心、ヒューマニティーがすごい人だ」

若き日の一休は謙翁宗為(けんおうそうい)という師を尊敬し、熱心に禅の修行に励んだ。謙翁が亡くなると、思い詰めた21歳の一休は琵琶湖で入水自殺を図り、母の使者に止められる。老いてからも、かわいがっていたスズメの死に号泣し、葬式を挙げて「尊林」という戒名をつけている。

根が純粋だったからこそ、形式だけ整えることを許せなかったのだろう。悟りを得た証しである「印可状」を嫌い「印可のない念仏宗、法華宗に転宗する」と宣言したこともある。臨済宗大徳寺派の禅僧である一休が念仏宗に転じると言えば皆驚く。

だが「さかい利晶の杜(もり)」の矢内一磨学芸員は「実際に転宗したわけではなく、印可の問題を強調するための表現。過激な言動の多くは比喩だったのではないか」と指摘する。

見る角度によって表情も変わる一休。「まずは自分の頭で考えなさい」というメッセージを残したように思える。   (塩田宏之)

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