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不便な紀州になぜ御三家? かつては有数の大都市

とことん調査隊

和歌山県といえば、将軍徳川吉宗を出した紀州藩があったことで有名だ。小高い丘にそびえ立つ和歌山城の天守閣を仰ぎ見れば、御三家の威容を実感する。だが和歌山県は関西でも端に位置し、県都・和歌山市の人口も全国56位(2015年10月時点)にすぎない。なぜ交通も不便なこの地域に御三家があったのか。

「江戸時代、和歌山は全国有数の大都市でした」と教えてくれたのは和歌山市立博物館の学芸員、佐藤顕さんだ。同博物館が展示する「日本國々繁花角力」を見せてもらった。江戸時代の各地の繁栄ぶりを相撲の番付にしたもので、「紀州和歌山」はなんと西前頭筆頭。かなりいい順位ではないか。何のデータを基にランキングしたのか不明だが「備前岡山」や「筑前福岡」より上位なのだ。

人口も多かったようだ。同博物館の元館長である三尾功さんが著した「城下町和歌山夜ばなし」によると、江戸時代の和歌山の人口は推定約9万人(和歌山城周辺のデータで、現在の和歌山市とは範囲が異なる)。少ないようにも感じるが、同書は「全国第八番目の大都市」としている。和歌山は御三家があっても決しておかしくない規模だったのだ。

関西の端にある和歌山の位置も重要な意味を持つ。江戸幕府は大坂を西国の抑えとして軍事拠点にしていた。だが幕府に反旗を翻した大名が大坂を占領するおそれもある。そこで「大坂の南に隣接する紀州に御三家を置き、大坂への抑えとした」と佐藤さんは指摘する。

当時の和歌山の街中の様子はどのようなものだったのだろうか。同博物館の元館長、額田雅裕さんと絵本に携わっていた芝田浩子さんは江戸時代の一種の旅行ガイド「紀伊国名所図会」の絵図に色をつけて解説した本を著している。出版元の「ニュース和歌山」に絵図を見せてもらった。

驚いたのは和歌山の街の活気だ。現在の和歌山城北にある京橋の絵図には、城の堀を物資を載せた舟が多数行き交い、堀のそばの朝市が通行人で混雑する様子が描かれている。現在の同じ場所を記者もよく通るが、当時の方が人通りは多そうだ。額田さんは「商業が発展し、にぎわっていた様子が分かる」と言う。

海運が大きな役割を担っていた当時、和歌山は海路の要衝だった。経済の中心は大坂、政治の中心は江戸であり、紀伊半島は経済と政治の中心地を結ぶ海上ルート上の位置を占めていた。佐藤さんは「紀州に御三家を置くことで物流の要衝を押さえた」と指摘する。

海上ルートを通じて、紀州の人々が全国に進出した歴史もあるようだ。和歌山県湯浅町教育委員会の中原七菜子さんが「町誌をみると、紀州漁民が房総半島まで漁に出かけたことが記されている」と教えてくれた。

湯浅町は「しょうゆ醸造の発祥の地」だ。しょうゆといえば全国的には湯浅より千葉県野田市の方が有名だが、中原さんは「しょうゆ醸造も黒潮ルートで野田に伝わったようだ」という。千葉県野田市市史編さん担当の宮崎等さんも「しょうゆ醸造が紀州から伝わったというのは、野田市でも有力な説の一つ」と認める。

和歌山と千葉には「勝浦」や「白浜」など共通する地名もある。これも「紀州漁民に由来する」との説もあるようだ。千葉県勝浦市生涯学習課に聞くと「地名の由来については史料がなく真偽は不明だが、黒潮を通じて両地域につながりがあったようだ」と答えてくれた。

関西2府4県で唯一、人口が100万人を割り込み、主要な交通路からも外れた位置にある和歌山県。だが、かつては日本有数の繁栄を誇り、その痕跡は全国各地に残されている。

(細川博史)

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