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紀伊の絵師・真砂幽泉、江戸時代のリモート教育

文化の風

伝真砂幽泉筆「耕織図屏風」(左隻、江戸時代、六曲一双、紙本着色、龍泉寺蔵、和歌山県立博物館提供)
新型コロナウイルスの感染拡大で企業も学校もリモートの勤務や授業を本格的に導入した。実は遠く江戸時代においてリモート教育は絵画の世界で盛んだった。五十嵐公一大阪芸術大学教授が解説する。

去年の6月13日から7月12日、和歌山県立博物館で企画展「紀伊田辺の画家 真砂幽泉」が開催された。しかし、この真砂幽泉(まなごゆうせん、1770~1835年)はまだ知名度が低い絵師のようなので紹介したい。

京都とのつながり

幽泉は紀伊牟婁郡三栖組(和歌山県田辺市)の大庄屋の長男として生まれた。名は友親。絵が好きだったため10代の頃に京都に上り、鶴澤探索、探泉親子の門人になった。彼らは江戸幕府に仕えた狩野一門の京都支店長のような絵師である。幽泉は鶴澤家から作画の基礎を学んだのである。その後、幽泉は寛政元年(1789年)には三栖に戻り、真砂家の仕事を助けるようになる。そして享和3年(1803年)に大庄屋本役となり、それ以降も三栖のために尽くした。

幽泉は三栖組大庄屋本役になることが早くから期待されていたから、好きな絵を学んだ京都での時間は人生の宝物だったはずである。そして、幽泉は終生それを大切にした。京都から三栖に戻った後も、手紙によって鶴澤家と連絡を取り続けた。

そして、それらの手紙から様々なことが分かる。鶴澤家が幽泉に作画のための絵手本を送る。幽泉はそれを学んで描いた絵を鶴澤家に送り、意見を貰(もら)う。つまり幽泉は通信添削を受けていたのである。指導する鶴澤家は、京都でしか入手できない絵具などを代金と引き換えに幽泉に送ることもあった。そして通信添削で教える内容には内規を設け、門外不出の絵手本も指定していた。教育プログラムが確立していたのである。

更(さら)に面白いことに、鶴澤家には確認できているだけでも伊予三島、伊勢桑名に門人がいて、彼らにも通信添削をしていた。リモート教育は江戸時代から盛んだったのである。

そのリモート教育の成果の一つが、京都文化博物館学芸員の有賀茜氏が紹介した田辺市龍泉寺所蔵の「耕織図屏風」である。これは鶴澤家の絵手本に学んで幽泉が描いた可能性が高い屏風である。幽泉はリモート通信教育で学んだ成果を、地元に還元していたわけである。

長澤蘆雪とすれ違い

ところで、この真砂幽泉の活動拠点だった三栖は現在の和歌山県田辺市の一部である。田辺は海に面した美しい街で、熊野古道のひとつ中辺路の拠点である。その田辺に名刹高山寺があるが、天明7年(1787年)2月ここに滞在した絵師がいた。長澤蘆雪である。

天明6年10月頃、蘆雪は師匠の円山応挙に命ぜられ、紀州の寺院の障壁画を描く旅に出た。串本の無量寺、古座の成就寺、富田の草堂寺の障壁画を描き、その旅の終わりに田辺の高山寺に滞在している。

そこで興味深いのが、真砂幽泉と長澤蘆雪の関係である。この天明7年、幽泉は数えで18歳。三栖と高山寺の距離は近い。幽泉の養父が、高山寺に出入りしていた記録もある。一方、蘆雪は34歳で、これ以前から京都でも有名な絵師だった。そうであるなら、高山寺に来た蘆雪に幽泉は興味を示したはずである。では、二人は高山寺で会っているのだろうか。

実は、この時に二人は会っていない。幽泉が京都での修業を終え、三栖に戻ってきたのは蘆雪が高山寺を発(た)った後だったからである。二人はニアミスしていたのである。

ただ、三栖に戻ってきた幽泉は蘆雪が高山寺に来たことを聞いたに違いない。幽泉は蘆雪の名を知っていたはずだから、それをどう思ったのだろうか。その後、蘆雪の作品から学ぶことがあったのだろうか。地方で活躍した絵師が、どの様に京都の作品を学んだのかについては不明なことが多い。その点でも真砂幽泉の事例は興味深い。

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