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反骨の僧・沢庵、兵庫・出石から幕府に異議

時を刻む

沢庵和尚の肖像(部分、宗鏡寺蔵)

江戸初期、徳川幕府の締め付けにあらがって寺院統制に異議を唱えた禅僧がいた。たくあん漬けを考案したとの伝承もある、あの沢庵宗彭(たくあんそうほう)和尚だ。禅定三昧の暮らしから腰を上げたきっかけとは。

「沢庵は隠棲(いんせい)するつもりで故郷の出石(兵庫県豊岡市)に庵(いおり)を結んだはず。しかし、大徳寺(京都市)が危機に直面したため、捨て置けず立ち上がったのだと思います。大徳寺は沢庵も住職を務めた禅宗の名刹ですから」

こう話すのは兵庫県豊岡市立歴史博物館の小寺誠・副館長。出石の領主・山名氏の家臣の息子として1573年に生まれた沢庵は、幼くして仏門に入る。縁あって大徳寺153世住職に就任したのは1609年。ただわずか3日で退座してしまう。

雪深い風土が培う

「但馬地方は雪深い土地柄ですから、辛抱強い性格が養われる。地位にしがみつこうとしない半面、ここぞ、というときに行動する沢庵の骨太な人物像は、こんな境遇から形成されたのでは」(小寺副館長)

沢庵が宗鏡寺に作庭したという「鶴亀の庭」(兵庫県豊岡市)

生涯、京都や堺、近江、大和、江戸などを転々とした沢庵だが、出石の宗鏡(すきょう)寺は格別な寺だ。大徳寺を本山とする臨済宗の寺で、少年時代に修行した道場というだけでない。大徳寺の僧・菫甫宗仲(とうほそうちゅう)と出会い、人生の転機さえもたらした場だ。出石藩主に勧めて修復・再興させた寺でもある。

名誉を求めず、権力にこびない禅の第一人者として、評価が定まりつつあった沢庵。浅野幸長、黒田長政ほか全国の大名から「ぜひわが菩提寺の開山(初代住職)に」と声をかけられたが、断り続ける。40代後半で帰郷し、宗鏡寺の裏山に「投淵軒」と名付けた質素な庵を構えた。ここで作歌や著作に明け暮れる。

危機が訪れたのは1627年。大徳寺ほかに出されていた住職への勅許(天皇の承認)を、事前の相談がなかったため徳川幕府が無効とし、その象徴である紫衣(しえ)を剝奪したのだ。

「大徳寺は皇室ゆかりの禅寺。代々の住職は勅許を得て就任し、最も高貴な色とされた紫の袈裟(けさ)と法衣着用も併せて許されるしきたりでした」と小原游堂・宗鏡寺住職。

沢庵和尚ゆかりの宗鏡寺境内に建つ投淵軒。現在は茶室になっている(兵庫県豊岡市)

幕府はこれに先立ち、1613年に出した禁制(法令)で、勅許の前に幕府に届け出ることを求めていた。主要寺院の人事権を朝廷から奪い、徳川幕府による宗教界支配を固める狙いだ。ところが禁制が発令されたあとも、十数年間、幕府に届け出なく紫衣勅許がなされていたことが発覚。

「幕府には、本来なら在任中の大徳寺住職が対応するのが筋。ところが他人ごとと思えぬ沢庵は出石をたって大徳寺僧侶仲間の玉室、江月と組み、わざわざ3人連署で幕府に抗議します」(小寺副館長)

流罪後に将軍が帰依

沢庵は禁制の非現実性をあげつらう。幕府は住職に就任できる要件として修行30年、公案(禅宗で参禅者に出す課題)1700則をパスすることを課していた。これに対して「10代半ばで修行を始めると終わるのは40代半ば。その数年後に住職になれても、弟子をさらに30年教えていては仏法相続さえ難しい。また公案1700則というのも中国の禅宗史書『伝灯録』に載った祖師1701人にちなむ数合わせにすぎない。180則で悟った国師もいれば、80則でおえた人もいる」――。

しごくまっとうな指摘だが、「禁制と知りながら逆らうとはけしからん」と幕府をかえって逆上させてしまう。江戸に呼び出されて詮議の上、沢庵は出羽上ノ山(現山形県)への流罪が言い渡される。

配流から3年後、沢庵は許された。一転して三代将軍家光の帰依を受け、江戸に用意された東海寺で晩年を過ごす。大徳寺・妙心寺の禁制を旧例に戻すよう願い出てめでたく認められるが、宗教界からの幕政批判はこの後めっきり減る。

(編集委員 岡松卓也)

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