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大阪・生野、眼鏡レンズ発祥の地 実は鯖江のルーツ

とことん調査隊

コリアンタウンとして知られる大阪市生野区。実は日本の眼鏡レンズ発祥の地だということをご存じだろうか。かつては日本一のレンズ産地だった。眼鏡といえば福井県の鯖江では。なぜ生野に。レンズ産業に焦点を当てると曲折の産業史が浮かび上がってきた。

「田島のレンズ。知っている人は多いですよ」。記者(26)が最近、眼鏡を買った大阪市の眼鏡店で店主が教えてくれた。田島は生野区にある。区役所に聞くと「メーカーはほとんど残っていませんが、田島神社に発祥地と示す石碑があります」という。

「老眼が治りますように」「目のきれいな元気な赤ちゃんが生まれますように」。神社の絵馬には目にまつわる願いがたくさん。隣には「眼鏡レンズ発祥之地」の石碑が立つ。幕末の安政4年(1857年)にレンズの研磨技術が田島に伝わり、「昭和十年には、わが国眼鏡レンズ産地を確立しました」とある。

なぜレンズ生産が広がったのか。「当時は農家が多く農閑期の副業として根付いたようです」。近畿眼鏡類協同組合(大阪市)の神代勲さんが教えてくれた。田島は河内木綿の生産も盛んだったが、明治20年(87年)ごろから輸入綿に押され衰退。農家の生計を支えたのがレンズだった。

「兵庫県から伝わった勾玉(まがたま)の研磨技術をレンズに取り入れたという説がある」。老眼鏡のカンダオプティカル(大阪市)の神田晃治会長が解説する。家内工業として始まり、大正末期には機械化が進んで生産量が増え、中国などへ輸出した。

第2次世界大戦直後は苦戦したが、1950年ごろから低価格を強みに米国などへ販路を拡大した。70年ごろは半分を輸出が占めた。一時は田島に200社近いレンズメーカーが集積。「磨きに使う(顔料の)ベンガラが工場から流れ出て、道は真っ赤になっていた」(神田会長)

眼鏡産業も広がった。隣の巽地区はフレームの産地に。流通も発達した。「メガネの愛眼」の愛眼は41年、田島で眼鏡卸として創業し、その後、小売りを始めた。

「鯖江に眼鏡の技術を伝えたのは大阪だ」。神田会長から意外な言葉が飛び出した。豪雪地帯の福井もまた農家の副業を必要としていた。1905年に増永眼鏡(福井市)を創業した増永五左衛門さんが注目したのが、少ない初期投資で現金収入を得られる眼鏡フレームの生産だ。大阪から職人を招いて技術を学び、今の眼鏡産業につながった。

では隆盛を誇った田島はなぜ衰退したのか。サングラス用レンズの乾レンズ(大阪市)を訪ねた。乾喜則社長は「プラスチックレンズの普及が大きかった」と話す。レンズの主流はガラスだったが、60年代にカメラ用でアクリル樹脂が採用され、眼鏡用もプラスチックにかわっていった。

製造方法が違い、新たな投資が必要になったが、零細企業が多い。レンズは光学機器にも使うが「東京や長野の精密産業には太刀打ちできなかったのだろう」(乾社長)と業態転換もかなわなかった。

73年の変動相場制移行で円高が進み、輸出競争力も失った。乾レンズの乾喜美会長は「田島のレンズ屋は輸出ばかりに目がいっていた」と振り返る。同社は鯖江に拠点を構え、国内にも力を入れていたことが幸いし生き残った。

今も残るのは乾レンズとタレックス(大阪市)くらいだ。「眼鏡用は独カールツァイスなど大手との競争が激しい」(乾社長)。タレックスは研磨技術に偏光フィルターを組み合わせ、サングラス用偏光レンズに活路を見いだした。

一方の鯖江。軽くて丈夫なチタンを使うフレームの製造技術を確立するなど、世界に通用するブランドとなった。いかに変化の波に対応し勝ち抜くか。レンズを通じて見えてきた。(梅国典)

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