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食い倒れの道頓堀、芝居の街だった 英米超す活況400年

とことん調査隊

道頓堀といえば、おいしい食べ物屋が並ぶ「食い倒れの街」の印象が強いが、ルーツは「芝居の街」だという。NHK連続テレビ小説「おちょやん」で昭和初期の道頓堀を知り、「『日本のブロードウェー』って本当?」と目を丸くした記者(26)が、当時の人々の熱気と暮らしぶりを探ろうと街を歩いた。

まずは歴史を知るために「道頓堀ミュージアム並木座」へ。ミュージアム仕掛け人の山根秀宣さんによると、当地に東横堀川と西横堀川をつなぐ道頓堀川が完成したのは1615年。その名は開削を始めた安井道頓という人物に由来する。26年以降、道頓堀川の南に芝居小屋が誘致され、繁華街を形成した。

後に「道頓堀五座」と呼ばれる5つの大劇場は、グリコの看板で有名な現在の戎橋より東側にあった。「摂津名所図会」(1790年代に編さん)などの資料を見ると、幕府公認の証である太鼓やぐらを備えた立派な芝居小屋が通りの南側に並んでいる。

戎橋に最も近いのが人形浄瑠璃の「竹本座(後の浪花座)」。その東には「中の芝居(後の中座)」「角の芝居(後の角座)」「竹田の芝居(後の弁天座)」や、明治期に五座に名を連ねた「角丸の芝居(後の朝日座)」があった。このほかにも小さな芝居小屋が多数あった。

「道頓堀は約400年前から華やかな劇場街だった」と山根さん。米国ブロードウェーで最初に劇場ができたのは1842年、英国ウェストエンドは1663年。道頓堀はそれより早く、東西約400メートルのエリアに劇場がひしめく光景も想像すると圧巻だ。

芝居小屋が通りの南側に並ぶ一方、通りの北側(堀川寄り)には「芝居茶屋」が軒を連ね、芝居の席を押さえたり食事を用意したり、見物客をもてなす役割を担った。

芝居茶屋が必要とされた理由は、当時の観劇スタイルとも関係しているという。

芝居見物に来る客の多くは前夜のうちに堀川を船でやってきた。船着き場で「お茶子(ちゃこ)」(芝居茶屋で働く女性)に出迎えられて店に上がると、食事をしたり仮眠をとったりしながら、夜明けまでの時間を過ごした。

では、なぜ芝居の前夜に入る必要があったのか。それは明治中期まで芝居の興行は太陽光が照明代わりで、夜が明けると幕を開け日暮れで終わるのが常だったからだ。幕あいは2~3時間と長く、客は途中で茶屋に戻って食事をとったり着替えたり。なんともぜいたくな楽しみ方だ。

舞台の場面転換に用いる「回り舞台」は道頓堀が発祥の地。これを初めて使った歌舞伎作家の初代並木正三(1730~73)の生家も芝居茶屋で、からくり芝居などを近くで見て育ったという。ほかにも料理を提供する仕出屋、仮眠用の布団を扱う貸布団屋など様々な商売があった。

さらに調べると、関西大なにわ大阪研究センターが古い地図や写真、絵はがきなどを手掛かりに、大正期ごろの街並みをCGで再現していた。ホームページでも動画などを公開。芝居小屋やカフェ、飲食店が立ち並び、人々がにぎやかに行き交う様子を感じ取れる。1日約10万人が行き交っていた可能性もあるとか。

「芝居の街」は戦後に変貌し、道頓堀五座は映画館や演芸場に姿を変えた。令和の時代に劇場として残るのは、大正期にできた大阪松竹座のみ。芝居茶屋が客をもてなした時代も終わった。「数年前まで残っていた茶屋の建物も取り壊されてしまった」。曽祖父の代まで茶屋を営み、同じ場所でうどん店「今井」を経営する今井徹さんは惜しむ。

「次の100年を考えるために、400年栄えた街の根本を知らなければ」と今井さん。芝居が人を呼び、もてなしの中で豊かな食を育んだ道頓堀。その歴史から街の魅力を再確認した。(三浦日向)

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