「分断」生んだ民主化弾圧 韓国の全斗煥元大統領死去

韓国社会が抱く全斗煥(チョン・ドゥファン)政権の記憶は暗い。警官に殴られ、留置場で一夜を過ごした学生時代の話を語る50代の市民は少なくない。民主化を暴力で封じた1980年代の軍事独裁は、保守と革新勢力が鋭く対立する韓国社会の「分断」を根付かせた。
79年10月、当時の朴正熙(パク・チョンヒ)大統領を襲った銃声が全氏を権力の表舞台に引き上げた。朴大統領は酒席で、側近の金載圭(キム・ジェギュ)中央情報部長に暗殺された。
全氏はその時、軍内部の機密を把握する立場の保安司令官だった。事件捜査の責任者を務めながら、軍の実権を掌握した。9カ月にわたるクーデターの末、崔圭夏(チェ・ギュハ)大統領(当時)を退陣に追い込む。自ら大統領候補に名乗りを上げ、そのまま最高権力者の座におさまった。
韓国の軍事独裁は朴正熙、全斗煥両政権の26年間に及んだ。ただし、同じ独裁者でも、2人に対する国民の評価は異なる。保守陣営にとって「漢江の奇跡」で経済発展の基盤を整えた朴氏は尊敬の対象だ。一方、民主化運動を暴力的に抑え込んだ全氏をたたえる言動はタブーに近い。
歴史に残る民主化弾圧は、80年の光州事件だ。全氏ら軍指導部は学生らの大規模デモに特殊部隊を投入し、死者は少なくとも百数十人に達したが、軍部は報道を統制し「暴動は北朝鮮が扇動した」と宣伝して光州を封鎖した。国民の間で真相が明らかになったのは、民主化を進めた盧泰愚(ノ・テウ)政権になってからだ。
全氏は責任を認めるどころか「政治報復だ」と主張し、国民感情を逆なでした。光州事件で軍がヘリコプター射撃をしたという神父の目撃証言を、「破廉恥な噓つきだ」と自著で否定した。神父の遺族が死者の名誉を毀損した罪で全氏を訴え、法廷闘争中だった。
10月に死去した盧泰愚氏が晩年を贖罪(しょくざい)に費やしたのとは対照的といえる。盧氏は罪に問われた不正蓄財などで科された多額の追徴金を完納したが、全氏は支払いを拒み続けた。
文在寅(ムン・ジェイン)政権を支える革新勢力はまさに、全政権下で学生運動を経験し、弾圧の対象になった世代だ。政界を含む今の韓国社会は、80年代に学生運動を経験した60年代生まれの「86世代」を主力に動いている。
韓国政府は10月末に盧泰愚氏の国家葬を営んだ。この時、大統領府高官は「全斗煥元大統領の国家葬は一考の価値もない」との見解を示した。全氏はなお政治闘争の対象であるからだ。
経済面では、全氏の功績を評価する見方もある。朴政権が点火した経済成長を安定軌道に乗せ、80年代前半は年8%近い高度成長を実現した。80年に20%を超えた物価上昇率を3%台にまで抑えこみ、経常収支を黒字に導いた。韓国に国際舞台への跳躍の機会を与えた88年のソウル夏季五輪を誘致したのも全政権だった。

日本との関係改善も進めた。全氏は83年、当時の中曽根康弘首相を国賓並みの待遇で韓国に迎え入れた。晩さん会では中曽根氏が韓国語で韓国の歌を、全氏は日本語で「知床旅情」を歌い友好ムードを演出した。
84年の来日時は、宮中晩さん会で昭和天皇が「今世紀の一時期において、両国の間に不幸な過去が存したことは誠に遺憾であり、再び繰り返されてはならないと思います」と述べられ、全氏は「わが国民とともに厳粛な気持ちで傾聴しました」と応じた。
こうした外交は、国内の反日世論を押し切れる独裁者だからできたことでもあった。韓国大統領府報道官は23日、記者団に「元大統領の冥福を祈る」と述べると同時に「歴史の真実を明かさず、誠意ある謝罪がなかったことに遺憾を表する」と強調した。文大統領らの弔問や政府の追悼行事は見送られ、家族葬だけが営まれる見通しだ。
(ソウル=恩地洋介)
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