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藤瀬政次郎氏 三井物産の顔、人として大きく

三井物産の大立者・藤瀬政次郎が大きく羽ばたくのは日露戦争の頃だ。藤瀬はシンガポール支店長、香港支店長をこなし、本店参事としてしばし羽を休めていた。

藤瀬政次郎氏(宮本又次著「大阪商人太平記」より)

「当時すでに日露間の風雲急を告げつつあったので、藤瀬は炯眼(けいがん)をもって早く、戦時需要品を用意し、開戦とともにみずから満鮮各地に出張し、皇軍のため軍需品補給の大任に当たり、公私ともによく、所期の効果を収めた。明治38年(1905年)、上海支店長山本条太郎が重役に挙げられて、帰朝した後を受けて、上海支店長に補され、以来10年の久しきにわたって、その職に精勤し、声望を上げた」(実業之世界社編「財界物故傑物伝」)

大正3年(1914年)、シーメンス事件※で山本条太郎ら経営幹部が引責辞任したため、藤瀬は上海支店長から取締役に昇任、同7年(1918年)には常務に就任する。やがて筆頭常務として世界最大の商社三井物産の運営の一切を掌握するに至る。

※大正3年に暴露された、ドイツのシ―メンス社と日本海軍との贈収賄事件。三井物産は日本における代理店を務めていた。これにより第1次山本権兵衛内閣は総辞職。

「欧州大戦(=大正3年からの第1次世界大戦)は三井物産にとって、その商権を一層強固に世界各国に確立する機会であった。海陸全機関を働かして、文字通り全世界の都市に三井の旗を翻して進出し、あるいは、造船部を設け、肥料部を設けるなどして、大正7年においては、その商売高も戦前の数倍に増加し、同年資本金を1億円に増加した」(和田日出吉著「三井コンツェルン読本」)

大正5年(1916年)には雑穀部を設け、同6年(1917年)には造船部を立ち上げる。同7年には商い高が大戦勃発前の4倍にも達した。この年、資本金を2000万円から、一挙に5倍増資をやってのけ、1億円に達した。

「M・B・Kの名は洋の東西にわたって高揚され、この期を画して、三井物産は世界的貿易会社として気を吐くに至った。これは世界大戦という、貿易界にとって千載一遇の好機に恵まれたからでもあるが、この好機をとらえ、万般の施設を督励して誤りなからしめた藤瀬の手腕に負うところ少なくない」(財界物故傑物伝)

大正7年、欧州大戦が休戦となるや、一気に戦線を縮小した。日清、日露の両大戦景気の反動の激しさを知るだけに、目いっぱいに広げてきた両翼を一気に収納した。飛翔の時代は終わったのだ。同9年(1920年)には財界は恐慌をきたすが、三井物産の被害は軽微であった。この年、綿花部門を分離、独立させ、東洋綿花株式会社を設立、会長に就任。

当時の三井物産では山本条太郎が対外的な顔であったが、山本が去った後は藤瀬が顔であった。いや、山本よりも藤瀬の方が人物としては大きいところがあったとの見方もある。=敬称略

信条
・長崎人独特の熱情漢で、豪胆、機略あり、信念に強く、仁侠(じんきょう)に富む
・名利に極めて恬淡(てんたん)、よく書生を養い、政客を支援、気前よく金を散じた
・財界恐慌に際し、緩急自在の手腕が際立った(財界物故傑物伝)
(ふじせ まさじろう 1867-1927)
慶応3年(1867年)長崎県出身、県立長崎中学に学び、長崎外国語学校で英語を学ぶ。同校が廃止となったため上京、築地の商法講習所(一橋大学の前身)に入る。明治18年(1885年)、卒業と同時に三井物産に入社。兵庫支店勤務となるが、語学力を買われて同19年(1886年)上海勤務、同21年(1888年)にはロンドン勤務に栄転。同26年(1893年)帰国、下関支店、香港支店、同31年(1898年)シンガポール支店長、香港支店長、大阪支店長に栄進。同38年上海支店長、大正3年取締役、同7年常務、さらに筆頭常務に昇進。同11年(1922年)病気のため常務を辞任。

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