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西川伝右衛門氏 胆力あり勇敢、小成に甘んぜず大成

西川伝右衛門は近江商人のふるさと近江国南津田村に生まれ、寛永年間(1624-1645年)に大活躍した。行商から身を起こし次第に取引先を拡大していった。「帝国富豪立身談」(谷口政徳著)は数ある成功した近江商人の中で、西川については「生来、胆勇は衆を超え、勤倹また他に比なし」とし、以下のように記している。

「壮年の頃、わずかに銀600匁を携え、荒物雑貨、菓子などを仕入れ、故郷を出で越州(新潟)に赴き、旅商を始めたり。当時近江にも旅商の数少なかりしが、伝右衛門は十分に利益を得て次第に資本を増すに従い、上方地方の物産を仕入れ、広く北陸、奥羽の地方へ旅商して、しきりに花主(得意客)を求め、年々利益を増して、いくばくもなく資産を作りたり」

近江商人のシンボル、てんびん棒に象徴される勤勉さと同時に心肝の太さも周囲を圧していたから、大成することができたのだろう。

近江商人の業績をまとめた「近江商人」(平瀬光慶著)の中でも西川はリスクを恐れず、大成したとして、こう述べている。

「虎穴を探らざれば、虎児を得ず。危険を冒さざれば、奇功を奏する能(あた)わず。危険を恐れず、艱難(かんなん)を避けず、奮往勇進するは大胆敢為の人。初めてこれをよくすべし。西川伝右衛門のごとき、けだしその人なり」

西川は小さな成功には満足しなかった。新潟の知人と話していたときのことだ。北海道行きの腹を固める。

知人「現地はまだ全く開けていないようだから、北海道に渡って行商をやれば利益は大きいだろうな。しんどいことは大いに覚悟の上だ。艱難辛苦は激しくてもそれに倍する利益を上げられるに違いない」

知人の話に共感した西川が膝をたたいて喜んだ。

西川「私もかねてから北海道に渡り、事業を起こしてみようと考えたが、『機いまだ熟せず』とし、沈黙を守っていた。ところで、今幸い君の話を聞いてやっと決心がついた。ありがとう」

念願の北海道に渡った西川は上方の物産を江差、函館方面に売りさばいて、利益をつかんだ。やがて松前藩邸にも出入りできるようになると、もうけはさらに大きくなる。

西川は資産の増殖と並行して「戒慎」(戒め慎む)の度を加えていった。商人にとって慢心は禁物である。西川はひたすら謙虚を旨とし慢心を遠ざけた。すると思わぬところから、もうけ話がやってくるようになる。

北海道の奥地に入って漁業を始めると、利益は飛躍的に拡大するとの確信を抱くに至る。松前藩の重鎮から「あなたなら成功間違いなし。第1には藩のためとなり、第2にはあなたの利益となる。しかし、誰でもできることではない。あなたは沈勇にして才敏なる人なれば、艱難に耐えて、志を遂げることだろう」と持ち上げられ、その気になる。

西川「この地に渡航してきたのはこのような大業を起こしたいがためでした。今日まで時期を待っていたのです。万難を排して北海道に行き、漁場を開き、大いに海産業を営み、家名をおこしてみせます」

とはいっても漁場の開拓は困難を極めた。

「冬は寒気凛冽(りんれつ、寒さが厳しく身にしみるさま)として刀風(とうふう)面を刺し、見渡す限りぼうぼうたる荊棘(けいきょく、いばら)にあらざれば、高山峻嶽にして旅中逢うところのものは猛獣にあらざればアイヌ人のみ。最上の旅舎は渓谷の岩穴にあらざればアイヌ人の住み家のみ」(帝国富豪立身談)

だが、伝右衛門は深山幽谷を意に介さず、漁場開拓にまい進する。そして天は西川の踏ん張りを見逃さなかった。ついに忍路(おしょろ、現小樽市)に漁場を開くことができた。

以来毎年のように現地を訪ね、生涯で40数回漁場を訪ねた。=敬称略

信条
・小成に安んぜず、進んで活発な商業を営む
・正直を旨とした
・松前藩家老の言葉「汝は沈勇にして、才敏なるひとなれば、艱難に耐えて志をとぐべし」
(にしかわ でんえもん 1627-1709)
寛永4年(1627年、一説には同3年〈1626年〉)近江国(滋賀県)蒲生郡南津田村出身、上方の産物を仕入れ、北陸から奥羽地方に行商、のち北海道に進出、松前城下に拠点を築く。松前藩家老の推薦もあって奥地に入り、忍路に漁場を開く。宝永6年(1709年)没。

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