障害越えた真剣勝負 ブラインドサッカー・川村怜㊥

川村怜がサッカーを始めたのは小学生のころ。当時はJリーグ創設からまもなく、日本中がブームに沸いていた。憧れは元日本代表FWの中山雅史。Jリーグや1998年のフランスワールドカップ(W杯)での活躍をテレビで見て、その姿に魅了された。自分もいつかはあの舞台に――。
ところが、その夢は病気によって阻まれてしまう。5歳で発症したぶどう膜炎の影響で、中学校に進むころには視力が著しく低下。サッカーを続けることが困難になった。「視力をきっかけに、やりたいことができなくなる。もどかしかったし、さみしさも感じた」。中学、高校では陸上部に入ったが、サッカーへの思いはずっと捨てきれなかった。
鍼灸(しんきゅう)師の資格取得を目指して進学した筑波技術大学で、川村の人生を変える出会いが待っていた。同大学を拠点として活動するブラインドサッカーチーム「Avanzareつくば」だ。グラウンドで練習を見学していると、1人の選手に目を奪われた。
アイマスクで目を覆いながらもドリブルで軽やかに相手をかわし、得点を決める。その選手の名前は田村友一。当時の日本代表のトップ選手だった。「衝撃を受けた。自分もこの競技を通じて感動を伝えたいと思った」。JリーグやW杯出場の夢は絶たれたが、パラリンピック出場という新たな目標が生まれた。
競技を始めてみると、その難しさを痛感した。当時はまだ視力があったが、アイマスクを着けるとそこに広がるのは暗闇だけ。自分がどこを向いているのか、どこにいるのかすらわからず、プレー中は人にぶつかることもしばしば。「最初は走るだけでも恐怖を感じた」という。
そんな川村に競技の基礎を教えたのが田村だった。「線が細く、おとなしい子だった」と川村に出会った際の印象を田村は語る。アイマスクを着けたプレーに苦しむ川村に対し、最初は難しいプレーを避け、競技を楽しむことを優先させた。
得意のドリブルも、田村との練習で培ったものだ。当時は相手が集まっている場所に突っ込んでいく癖があった川村に対し、田村は1対1の駆け引きの重要さを教えた。「全部の局面で突破にいくのではなく、次につなげるためのドリブルも必要だと。『布石を打て』ということはよく言われた」と川村。
ブラインドサッカーは視覚障害の選手が打ったシュートを晴眼者のキーパーが本気で止めに来る。「真剣勝負で、そこに障害の有無は関係ない」と川村は話す。競技自体が、健常者と障害者が境界無く共存する社会の理想を体現しているともいえる。
日本のエースになった今は、この競技の魅力を多くの人に伝えたいと思う。普及という面でも、東京パラリンピックは重要な機会だ。「色々な人にきっかけを与えられるような大会にしたい」。強い思いを抱き、大舞台に臨む。=敬称略
(木村祐太)