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新常態の社会はフラット型 五輪は多様性の祭典に

ドーム社長 安田秀一

安田氏は箱根駅伝をいつもとは違う見方でテレビ観戦したという=共同

2度目の緊急事態宣言が発令されました。生活はどう変わっているでしょうか。米スポーツブランド「アンダーアーマー」の日本総代理店、ドームで社長を務める安田秀一氏は「ほぼ会社に行かなくなった」と話し、働き方や生活の変化を実感しているようです。変化はスポーツの世界にも様々に表れており、箱根駅伝や五輪・パラリンピックについて考察します。

◇   ◇   ◇

本来なら、晴れやかな気持ちで迎えるはずの年明けです。

が、今年は新型コロナウイルスの感染拡大により、ステイホームを余儀なくされ、初詣すら自粛するというかつてない異例づくしのお正月でした。一方で、新しい年を迎えたという新鮮さからでしょうか、僕自身は過去の呪縛からの解放への期待、新しい時代への期待を感じることができました。新型コロナのパンデミック(世界的大流行)によってニューノーマル(新常態)という概念、すなわち新しい働き方や生活が社会全体に広がっています。今年はそんな生活の変化による価値観の変化が本格化する一年になる、そんな予感が解放感への期待の正体だと思っています。

今年の正月、僕は例年のように自宅で箱根駅伝をテレビ観戦していました。でも、感染者拡大の危機感からか、価値観の変化からでしょうか、いつもとは違う見方をしていました。必死に走る学生や、それを取り巻く巨大な興行体制を客観視して「駅伝とはいったい何だろう?」などと考えていました。その起源は人や馬が、手紙をリレーして運ぶ古い時代の情報伝達システムと想像できます。遠く離れた場所にいる人に、いかに早くその「思い」を届けることができるか。地理的、時間的な制約を克服するための先人の努力と工夫が、今では大学教育の一環として、またはスポーツエンターテインメントとなってわれわれを楽しませてくれているわけです。

そんな分析的な視点を持ちつつ、これからの社会は「地理的、時間的な制約に縛られない生活」が定着していくのだろうなあ、という駅伝の価値に逆行する社会の到来を感じました。

地理的、時間的な制約がなくなる

箱根駅伝は大学同士が熱い戦いを繰り広げるスポーツエンターテインメントです。その大学は今、いったいどうなっているのでしょうか。これまでは授業を受けるため、自宅から離れた学校に行き、決められた教室に決められた時間に入室していなければなりませんでした。でも、今はオンライン授業がほとんどです。講義自体も録画が中心ですから、場所も時間も自分の都合に合わせることができます。居眠りして怒られることもありませんし、昼飯を食べながら授業を聞くことも可能です。ポイントは、地理的、時間的制約条件によって定義されていた教育における「道徳感」という常識が著しく変化する、そんなイメージでしょうか。すなわち、「学校教育と遅刻」との間に因果関係がつくれない可能性がある、ということです。

そうすると、そもそも遅刻ってなんだ? っていうことになりますが、これは社会の仕組み、つまりは経済活動における効率性の観点から「遅刻はダメ」というモラルが構築されたのだと推察されます。それも産業革命や大規模な戦争による組織の重要性が高まった近代以降にできあがった概念と考えるべきでしょう。そんな意味では人類の長い営みと比べれば、ごくわずかな時代の価値観といえると思います。

遅刻だけでなく、クラスやクラスメートという概念もまた、消えてなくなるかもしれません。無作為に割り振られるクラスと教室、そんな小さな地理的な制約の中で友達を探す、ちょっと俯瞰(ふかん)して見ればなんとも不自由で不条理な仕組みでしょうか。オンライン授業であれば、クラスという学校教育の骨格であった「集団作り」の一切は無くなってしまいます。そもそも学校は、国家という組織、つまり社会をよりよく運営するための人材づくりの機関です。平たくいえば「立派な社会人を育てる」のが学校教育の目的でしょう。

であれば、その社会人の受け皿である今の企業はどうでしょう?

テレワークが当たり前になれば、遅刻の概念はなくなります。社会において「時間の制約」がそもそも重要でないのだとしたら、学校教育においても、少なくとも遅刻を罰する必要はないのかもしれません。むしろ、締め切りなど「結果」がより重視されてくるように思います。

学校生活では重要な挨拶などの礼儀、これも多様性を帯びてくるはずです。「相手の目をみて、元気な声で……」とかではなく、メールで自己紹介を適切にできる能力のほうがこれからの社会では有効かもしれません。

もう一つ、箱根駅伝を見ながら考えたのが、選手たちの「心のつながり」です。駅伝にはタスキとともに「思いをつなげる」というイメージがあり、それこそが箱根駅伝が絶大な人気を誇る秘密でもあります。でも、母校法政大学でアメリカンフットボール部の指導もしてきた僕の経験から、今の学生たちの「心のつながり」は、昔とはまったく違うという事実を知ることになりました。

先日、法大アメフト部の有沢玄ヘッドコーチと話したときもその話題になりました。「選手同士の距離感がまったく変わった」といいます。僕らの学生時代は自分のチームメートについて出身校や出身地だけでなく、父親の職業など家庭環境まで知っていました。常に身近にいて、練習が苦しいときに励まし合うのも、彼女に振られた悩みを打ち明けるのもチームメート。そもそも仲間といえる存在がそこにしかいませんでした。つまり僕らが常識として持っている「心のつながり」はあくまでも地理的制約によって定義されていました。

でも、今では寮で共同生活をして、一緒に苦しい練習をしていても、特段仲間意識を持たないことも珍しくないのです。

チームメートよりソウルメート

なぜかというと、子供の頃からスマートフォンやタブレット端末を使いこなし、ソーシャルメディア(SNS)でやりとりするのが当たり前の世代には、つながる相手、苦しいときに相談する相手、うれしいときに自慢する相手はスマホの中にいくらでもいるからです。

若者はSNSでやりとりするのが当たり前になっている=ロイター

時間と空間を一緒に過ごす仲間より、SNSでつながる友達の方が仲が良くても何ら不思議ではありません。昔ながらの箱根駅伝のファンを失望させそうですが、「チームの思いをタスキでつなぐ」といった意識は、もう過去のものなのかもしれません。

これはスポーツチームに限らず、現在の若者みんなに共通する実態と言ってもいいでしょう。見方を変えれば、無作為に同じクラスに入れられたクラスメートと無理に仲良くなる必要のない、より自由な社会の到来と言えるかもしれません。

チームメートよりもソウルメート。チームや学校という組織への帰属意識は薄れ、人間同士のつながりを大事にする。そんな若者がこれから社会に出て多数派になっていきます。もちろん、我々大人たちもニューノーマルの広がりから地理的、時間的な制約から解放され、彼らを追いかける形で意識が変わっていくはずです。

自身の生活を振り返ってもそう感じています。コロナ禍以前の僕は、午前5時ごろ起床して、犬の散歩をした後に出社してトレーニング、9時前には自分の席に座っていました。社長として自分を律して社員の模範になるべきだと考え、相当「力んで」過ごしていました。でも、今ではその生活パターンも意識もまったく変わりました。

緊急事態宣言下では、ほぼ会社には行きませんし、行くべきではありません。そして、自宅で自分のペースで仕事を処理していてもなんの支障もありません。僕の鼓舞など関係なく、社員一人ひとりはちゃんと仕事を頑張っている事実にも気付きます。

帰属意識、言い換えれば「心の居場所」は物理的なモノではなく、インターネットを通じて心のつながりを確保できる時代において、組織への忠誠や帰属意識を強要しようという試みは、無駄な努力になっていくかもしれません。

組織への帰属意識が薄れることに対して、誰もがある種の怖さを感じると思います。でも、僕が肌で感じている意識変化、社会変化は、組織構造がヒエラルキー型からフラット型に変わっていくというモノです。会社のために一丸となって頑張るのではなく、価値観で共感できる者同士がつながり、それぞれが気持ちよく生きていく。価値観が合わない組織には属する必要がなく、人材の流動性も高まり、より最適化された組織運営が可能になる、そんなよりポジティブな変化を遂げると感じています。

ニューノーマルとは、規律や規則で押し込むのではなく、心のつながりがより重要になってくる、そんなイメージでしょうか。組織への帰属意識が薄れても、上意下達的な指導ができなくても、箱根駅伝を走る学生アスリートたちは生き生きと走り、そしてそのレベル自体が毎年あがっていること、それがそんな新しい価値観が決して間違っていないことを証明していると実感しています(悲劇のランナーと言われた円谷幸吉さんの時代とは隔世の感を覚えます)。

国ごとのメダル争い、意味薄まる

では、そんな時代において、スポーツの現在地、そして未来はいったいどうなるのでしょうか。

現代のスポーツビジネスは、もともとスタジアムという共有空間の熱狂をマネタイズすることから急成長を遂げました。でも今は、パンデミックによりそのビジネスモデルの再構築が必要になっていると言わざるをえないでしょう。だからこそ、多くのプロスポーツチームやスポーツイベントは時間と地理的制約を乗り越える戦略づくりにたくましく踏み込んでいます。そしてパンデミックがおさまったときには、スポーツの熱狂や感動がより幅広く、きめ細かに拡散している状態を容易に想像できるはずです。

とはいえ「スポーツの真の価値とは?」という、より大きな視点を持てば、それらは単なる方法論にすぎない、と僕は思っています。「熱狂空間を作ってマネタイズする」、これもほんの数十年に始まったスポーツビジネスの歴史の一片に過ぎません。僕はこれから始まるニューノーマルの時代において、スポーツの本質的な価値は時間をかけて、今よりさらに高まっていくと確信しています。

安田氏は「五輪もニューノーマルで変わっていく」と話す

五輪を考えてみましょう。今夏の東京大会は開催が危ぶまれています。中止になれば五輪の存続はピンチだという声もありますが、僕はそうは考えません。大きな視点で捉えれば、パンデミックを乗り越えた社会は地理や時間の制約、組織への帰属意識から解放され、人々は価値観でつながっていく、よりフラットな社会が広がっていることがイメージされます。

つまりニューノーマルが定着し、人々が国家や肌の色、さまざまな個性を認め合い、国や人種という帰属意識から解放された「真の五輪・パラリンピック」が実現するのではないか。そう思えるのです。世界平和の達成を目的とした本来の五輪の姿がより確実なモノになるという期待感が高まって、胸が熱くなってしまいます。

スポーツの本当の力を信じていればこそ、そんな未来がすぐそこに見えてきます。

学校のクラス対抗を思わせるような「国ごとのメダル争い」の意味はどんどん薄くなっていき、五輪はフラットな社会を体現するダイバーシティー(多様性)の祭典となる。そんな時代には国同士の争い、つまり戦争にも意味を見いだせなくなる。いささか飛躍した妄想かもしれませんが、五輪の生みの親、クーベルタン男爵はそんな未来図を夢に見ていたはずです。

他人との比較の意味がどんどん低くなり、自分自身を物差しにした幸福や健康により意識が高まっていく。コロナ禍においても、人々はどうにか「運動をできる方法」を探しました。自分が健康であることの尊さをこれほど実感したことはないでしょう。

今、人類が直面しているこの困難を乗り越える際、スポーツは大きな役割を担っていることでしょう。

箱根駅伝で見られた最終走者による逆転劇は、見方によっては悲劇であり奇跡でもあります。悲劇となったチームには「悔しさ」というかけがえのない財産が残ったかもしれません。奇跡となったチームにとって「諦めない」ことの意味が、これから先の長い人生においてよりリアリティーを持って心身に刻み込まれたことでしょう。

どんな状況においてもピンチをチャンスに変えるのは、たくましいまでの前向きな心。それだけは時代が変わっても変わらない真理だと思います。新しい時代は来るのではなく、みんなで作っていく。それこそが真のレジリエンス(回復力)だと実感した2021年の幕開けでした。

安田秀一
1969年東京都生まれ。92年法政大文学部卒、三菱商事に入社。96年同社を退社し、ドーム創業。98年に米アンダーアーマーと日本の総代理店契約を結んだ。現在は同社代表取締役。アメリカンフットボールは法政二高時代から始め、キャプテンとして同校を全国ベスト8に導く。大学ではアメフト部主将として常勝の日大に勝利し、大学全日本選抜チームの主将に就く。2016年から18年春まで法政大アメフト部の監督(後に総監督)として同部の改革を指揮した。18年春までスポーツ庁の「日本版NCAA創設に向けた学産官連携協議会」の委員を務めたほか、筑波大の客員教授として同大の運動部改革にも携わる。
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