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仏の尊顔にみせられて(鏑木毅)

公務員だった20代、人事セクションに所属していた時期がある。退職する職員を前に、「リタイア後の余暇に使える総時間は現役時代のそれより多いので、自分に合った趣味を探してほしい」とマニュアル通りに伝えていた。

そうは言っても、自分にははるかに先の話だと思っていて、実感はなかった。結局、サラリーマン時代の一番の趣味だった走ることが仕事となり、これといった趣味もなかった自分が最近は仏像の鑑賞に凝っている。

現代を生きる私たちには名刹の仏像は芸術作品という趣が強い。だが、これらが作られた時代は、戦乱、天災、飢饉(ききん)、疫病など現代人には想像がつかないほど死が身近にあった。当時の人々はすがるような気持ちで接していたに違いない。

競技中心の生活を送っていた40代は、トレーニングのことが頭から離れず、あるお寺で取材を受けたとき、次の遠征での勝負が気になって気もそぞろだった。

取材が終わったあと、閉館間近の誰もいない薄暗いお堂で、わずかな夕日が差し込み輝く如来像の姿を偶然目にした。宗教心とは無縁だった自分が、それまで感じたことのない安堵感に包まれた。

この如来像は数百年もの間、この場で多くの人々の心を慰めてきたと思うと、昔の人が仏にすがる気持ちをちょっとでも理解できた気になった。そして目の前に迫った勝負に一喜一憂する自分の視野の狭さに気付かされ、緊張がほぐれた。

仕事で京都や奈良方面を訪れることが多い。以前は寺院へ赴く心の余裕もなかったけれど、50歳をすぎた心境の変化も手伝って、仏像に会うのが楽しくなった。

京都の東寺は、京都駅から徒歩圏という近さにもかかわらず、メインの観光スポットエリアではないせいか訪れる人が意外に少ない。帰京へのわずかな空き時間に足しげく訪れては、心を整えている。

そして法隆寺の釈迦三尊(しゃかさんぞん)像。とにかく優しい表情で飛鳥人の国家安寧を願う気持ちが現代人の私にも強く伝わってくる。ささくれた感情がやわらぎ、前向きになれる。

奈良県吉野町の金峯山寺(きんぷせんじ)蔵王堂の金剛蔵王大権現像は期間限定の秘仏。圧倒的な力強い姿が、とかく気弱になりがちな自分を鼓舞してくれる。

いずれも参観者が少なくなる閉館直前の鑑賞をおすすめしたい。ときには夕刻の光に輝く仏像と2人だけの時間をともにする幸運に恵まれることもある。落ち着いて仏像と向き合うと、ちらっと見るだけでは生まれてこないさまざまな感情がわき起こってくる。

50代も半ばになると、仕事以外に情熱を傾けられるものがないと嘆く人が多い。走ることしか興味のなかった自分も、まさかこんな雅(みやび)やかな趣味を持つことになろうとは思いもしなかった。年齢を重ねるごとに趣向も変わる。

かつて修学旅行では退屈でしかなかった寺院巡りに熱くなっている自分が不思議だけれど、新たな生きがいを見つけたようで幸せな気分に浸っている。

(プロトレイルランナー)

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今日も走ろう(鏑木毅)

プロトレイルランナーの鏑木毅さんのコラムです。ランニングやスポーツを楽しむポイントを経験を交えながら綴っています。

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