保守的な社会で育つ、独創的で創造的なアスリートたち
ドーム社長 安田秀一

新型コロナウイルスのパンデミックやロシアのウクライナへの軍事侵攻など、世界は大きな転換期を迎えているようです。疫病と戦争という2つの地球規模の課題が同時に進行しています。
そんな中、僕自身の人生も転機を迎えることになりました。26年前に創業した会社の代表を退くことにしました。現在52歳ですので、人生のちょうど半分を費やしてきた会社の経営に一つの区切りをつけることになります。
この決断の背景に、現在の世界を取り巻く社会環境があることは否定しません。コロナ禍から消費は戻らず、ウクライナ情勢などによる原材料価格の高騰、底が見えない円安、国の借金の膨張など、世界規模の情勢不安の中、すぐにコロナ前の状況に戻るとは言い難いです。
僕自身、大いに悩み苦しみましたが、ベンチャー的な企業カルチャーから、経営基盤の整った大きな資本のもとで次の成長を目指すべきだ、という思いに至りました。経営者の責任として社員の将来、安心と安全、安定の確保は絶対です。
会社の事情とは別に、個人的に僕自身が変わりたい、と考えるようになったのも大きな理由です。そんな心境の変化が芽生えたきっかけは、やはりコロナ禍と東京五輪・パラリンピックでした。大変せんえつながら、東京大会の僕の評価は、莫大な資金を投じながら具体的な成果が残せなかった、失敗したイベントというものです。でも、多くの日本国民による評価はそうでもないようです。かといって成功でもない、なんとも曖昧な雰囲気のまま、もはや記憶からもなくなっているかのようです。
僕がこのコラムをはじめ、執筆や取材対応などを通じて「スポーツの産業化」を提唱させていただいたのは、東京が2020年五輪招致に乗り出した11年ごろからです。アメリカのスポーツ市場の急成長を間近で見てきたこともあり、20年の東京大会によって、日本にもすごい変化が生まれると大いなる期待をしていました。スポーツ関連企業として、大会の成功とその変化のために少しでも協力できればとも考えていました。

しかしながら、実際の五輪への準備は、これまでの日本での大きなスポーツイベントと同様に、特定の業界にお金を分配するだけの旧態依然としたものとなってしまいました。大会が終われば赤字を増やすばかりの無駄な施設が次々と建設される事態となり、「五輪ムーブメント」により定義されていたはずの「都市のサステナビリティー」というものも、国際オリンピック委員会(IOC)の「お題目」であったことが浮き彫りになりました。
このコラムでも繰り返し提言してきましたが、五輪はやり方次第で都市を大きく発展させることも、破滅に導くこともある巨大な「魔物」です。東京大会においてその象徴ともいえるのが、意匠にばかりこだわったザハ・ハディド氏の案に端を発する新国立競技場のプロジェクトでした。
僕もこれではいけないと考えて、成功事例である1984年のロス五輪や、96年のアトランタ五輪をつぶさに検証することを多くの関係者、有力者の方々に提言しました。特に、新国立競技場については野球場に改築してプロ野球チームの本拠地にすることを提案したり、そもそも40年の幻の東京五輪の開催予定地で、すでに多くの施設を有する駒沢公園での開催を提案したりするなど、五輪ムーブメントと過去の成功事例に基づいた具体的な戦略を提言し続けました。
近年の欧米の五輪の成功事例が目の前に存在するわけですから、必ず合理的な方向に変えられると思っていました。誰もが税金を効果的に使いたいはずだ、とも思っていましたが、現実はまったくそうではありませんでした。
その後、大学スポーツの改革を目指す日本版NCAA、大学スポーツ協会(UNIVAS)の設立でも、当初はスポーツ庁に求められて助言などしました。残念ながら、途中から学生のための改革とはまるで違い、政治的な方向に引っ張られていくのを強く感じて、この動きからも距離を置きました。
変革よりも安心安全を望む日本人
こうした経験から学んだのは、自分の知識、ネットワーク、僕のそんな意見などは、「今の日本ではお呼びでない」ということでした。現在の日本のあり方をつくっているのはわれわれ国民です。自分の声が届かない、響かないというのは民主主義のルールの下では、そのやり方、考え方が正解ではないということです。
僕の考えるやり方ではこの国は良くならない、すなわち自分自身に思い上がりがあったということに気づきました。
現在の日本の社会全体は確かに変革よりも安心と安全、そして安定を求めています。東京五輪をはさんだこの3年間くらいで、それを痛感しました。ならば、それに応えていくことこそが民主的なのではないか。故に、会社の経営もその方向に舵(かじ)を切り、自分自身も新しい考え方をしなければと思ったわけです。
ただし、僕の考えに変化をもたらしたのは、「安心安全を望む日本人」だけではありません。
大リーグで二刀流に挑戦する大谷翔平選手(エンゼルス)も違う意味で僕に大きな変化のきっかけを与えてくれました。また、最近ではプロ野球で28年ぶりの完全試合を達成した佐々木朗希投手(ロッテ)の存在も、僕の過去の価値観を壊して、自分の変化をポジティブなものにしてくれています。この2人は本当にすごい。過去にこの国には存在しなかったタイプであり、世界のスポーツシーンの新たなカリスマになり得るアスリートです。
日本で生まれ、日本の社会で育った若者が、彼らなりのやり方で解決策を見いだし、「二刀流」のように過去の物差しを使い物にならなくするような結果を出している。2人ほど突出した存在ではなくても、日本は五輪競技でもサッカーでも優秀なアスリートを継続的に輩出し続けています。

このコラムでは日本のスポーツ界の後進性や非合理性を何度も批判してきました。実際に問題ばかりなのは間違いないです。ところが、そんな後進的と思われる現場から、競技を再定義するような若者が現れている。それは一体なぜなのか。
正直言って、今の僕にはわかりません。むしろそういった若者のポテンシャルが、どうやって引き出されるのかを僕自身が学び直してみたいと思っています。少なくとも、過去の日本をつくってきた偉人たち、織田信長や西郷隆盛や松下幸之助や本田宗一郎といった突出した「世界的な偉才」を生み出してきた我が国の「懐の深さ」をもっともっとリスペクトすべき、と今ではそう考えるようになりました。
実際、僕が知らないだけで、政治やビジネス、学問や芸術の世界でも日本から世界と渡り合う人材が、徐々に育っているのかもしれません。日本の社会全体が大谷翔平選手と同じように、大きな可能性を秘めているのかもしれません。
そもそも「二刀流」の元祖といえば剣豪、宮本武蔵です。伝えられている史実によれば、彼の剣術は恐ろしく独創的で創造的。保守的で同調圧力の強い日本の社会では異質な存在といえるでしょう。ただそんな武蔵は、伝記や小説、映画やアニメなど、あらゆるメディアを通じて最も日本人に愛されている偉人の一人です。数百年前、この若者が生み出した「二刀流」という言葉が、慣用句として現代の日本人に根づいているわけです。日本人アスリートたちの大活躍と関連があるのでは、と考えたくなります。むしろ、日本の真のポテンシャルのヒントすら感じてしまいます。
「パンデミックの次は戦争か……」
この3年間、何度、大きなため息をついたことでしょう。何度、頭を抱えて苦しみ、天に向かって咆哮(ほうこう)したことでしょう。天から学べたことは、個人の存在など小さなモノということでした。地球規模のうねりの中、思い上がっていた自分を省みて、命があるだけでも感謝、健康であればなおさら感謝すべき、そんなことを今まさに学ばせてもらっているような気がしています。思い起こせば、11年前の震災の際にも、同じような思いを胸に抱きました。
過去においても、幾度となくあったであろう地球規模の災い、そんな状況を克服し、我が国を支えてきた偉大な先輩たちが日本にはあまた存在しています。大谷翔平選手、佐々木朗希投手も少年時代に大震災を経験し、乗り越えてきている若者です。なぜ、彼らはキラキラと輝き、すがすがしく、逞(たくま)しいのでしょうか。
僕はスポーツ界の人間として、そんな存在が誕生し続けるその秘密をなんとか解明して、広く社会に伝えていきたいと思うようになりました。
今後は経営者の立場を離れ、これまで以上に自由な視点で物事を考え、さまざまな形で発信できればと思っております。
