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日系アメリカ人たちのフィールド・オブ・ドリームス

スポーツライター 丹羽政善

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"If you build it, he will come."(それをつくれば、〝彼〟がやってくる)

1989年に公開された映画「フィールド・オブ・ドリームス」は、平凡な生活を送っていた主人公がそんな謎の声を聞いたことをきっかけに物語が動き出し、トウモロコシ畑に球場をつくってしまう。すると、最後に〝彼〟がやってくる。

ネタバレになるので雑にストーリーをなぞったが、そんなワンシーンを再現したのが、大リーグが年に1度だけ開催する〝フィールド・オブ・ドリームス・ゲーム〟である。

実際に映画「フィールド・オブ・ドリームス」の撮影で使われたフィールドの隣に簡易スタジアムを設け、メジャーリーガーが映画さながら外野のトウモロコシ畑から姿を見せる。

1回目となった昨年は、ヤンキースとホワイトソックスが対戦。映画には1919年のブラックソックス事件(ワールドシリーズでの八百長事件)で永久追放となったシューレス・ジョー・ジャクソンが登場するが、ホワイトソックスの選手らは、当時のユニホームでプレー。ファンはしばし、現実とファンタジーのはざまで酔った。

今年は8月11日(日本時間12日)に、 アイオワ州ダイアーズビルでカブスとレッズが対戦する。

一方でこちらは、悲哀に満ちた現実。かつて、アリゾナ州ツーソンのヒラ・リバーに日系人の〝フィールド・オブ・ドリームス〟が存在し、太平洋戦争中、人々の心のよりどころとなった。

話を進める前に、少し、時代背景をたどる。

1941年12月に太平洋戦争が始まると、翌年になって、アメリカに住む日系人は、スパイなど敵対行動をとる恐れがあるとして、大統領令9066号(42年2月19日)により、順次、強制収容所に入れられることになった。彼らの多くがアメリカで生まれ、アメリカで育ったにもかかわらず。

土地、財産を手放すことを迫られ、持ち込みを許されたのは1人スーツケース2つだけ。シアトルにあるパナマホテルの地下には、いまも、収容所へ入れられる前に日系人が隠した私物が保存されている。

2009年から1年半ほどマリナーズの指揮を執り、昨年までレンジャーズのコーチを務めたドン・ワカマツさんの祖父母もそんな理不尽を迫られた。

09年5月、お二人をオレゴン州のフッドリバーに訪ね、当時の話を伺ったことがある。当時、91歳だった祖母のルースさんは、「父が、裸一貫から築き上げた財産をすべて奪われた」と寂しげに振り返った。

「父は、鉄道のレールを敷く仕事をしていたんです。でも、戦争が終わって戻ってきたら、私たちの家には、知らない人たちが住んでいました」

ロサンゼルスでは、広大な土地を所有していたのに、すべてを奪われ、戦争終了後、かつての自分の土地の芝刈りなどをして生計を立てたという人もいたそうだ。

ルースさんらは最初、ポートランドにある競馬場の厩舎が仮の住居としてあてがわれた。その後、収容所を転々とし、収容所の中でも〝危険分子〟が多く集められたことで知られる北カリフォルニアのツールレイク隔離収容所へ送られている。悪名高き忠誠テストで、アメリカ政府の望む答えをしなかったからだ。

そこでは、「プライバシーなんてなかった」とルースさん。「壁は薄く、トイレには仕切りもない」

ただ、何より屈辱だったのは、アイデンティティーが揺らいだことだという。

「私たちは、アメリカ人だった。それを否定された。それに耐えきれず、日本へ帰国する選択をした人もいます。しかし、日本語をうまく話せない彼らは、今度は祖国で〝移民〟と呼ばれ、差別を受けた。どちらにしても、私たちには居場所がなかった」

収容所で日本語を話すことは、スパイとみなされる可能性もあり危険。ただ、日本庭園をつくったり、正月や節句など、日本の伝統文化を楽しむことは許され、そこにつかの間の安らぎを見いだしたが、そんな中で野球が、日系人を精神的に支えていくことになる。

1900年に広島で生まれ、ハワイ島を経て、カリフォルニア州のフレズノに移り住んだ銭村健一郎さんは、二世の野球チーム「フレズノ・アスレチック・クラブ」をフランク・ナラシマさんらと19年に創設。当時フレズノには、農業に従事する多くの日系人が住み、野球が盛ん。フレズノに住み、そんな日系人の野球の歴史を研究しながら、それを次世代に継承する活動を行っている「二世ベースボール・リサーチプロジェクト」の代表を務めるケリー・ナカガワさんによれば、「カリフォルニア州だけで、100近くの日系のセミプロチームがあった」という。

「しかも、大リーグで間違いなく通用するような選手もいました」

それがまだ許される時代ではなかったが、フレズノ・アスレチック・クラブは、ニグロリーグやパシフィックコースト・リーグのチームを相手にプレー。最後の4割打者といわれるテッド・ウィリアムズ(36~37 パドレス)や、56試合連続安打のメジャー記録を持つジョー・ディマジオ(32~35 シールズ)も、若い頃にパシフィックコースト・リーグでプレーしたが、対戦などを通じて日系人と交流した記録が残る。

ディマジオが後年、マリリン・モンローと結婚し、日本を新婚旅行で訪れた際、様々なアレンジをしたのが、ディマジオと高校時代に一緒にプレーしたキャピー・ハマダさんという方だったそうだ。

ナカガワさんの叔父にあたるジョニー・ナカガワさんや銭村さんは、1927年にベーブ・ルースとルー・ゲーリッグがバーンストーミングツアー(地方巡業)でフレズノを訪れた際、親善試合に参加している。

「私の叔父は、ゲーリッグのチームでプレーしたと話していました。大谷翔平選手と同じように、投手と外野手の二刀流だったそうです」

ジョニーさんらが加わったゲーリッグのチームは、ルースのチームに13対3(10対3の説もあり)で勝った。

日系人の野球人気は当時、北はカナダのバンクーバー、南はメキシコのティファナ、東はネブラスカ州にまで拡散し、バンクーバー朝日など多くのチームが存在。もちろん、ハワイ州にもチームがあった。

「サンノゼ朝日、シアトル朝日、サンペドロ・スキッパーズなど好チームがたくさんありましたが、フレズノ・アスレチック・クラブの強さは別格で、日本の他、韓国、中国へも遠征し、試合を行っていました」

そうして1920年代から40年にかけて、野球は日系人の生活に深く根付いていったが、41年12月に太平洋戦争が始まると、冒頭で触れたように、日系人は強制収容所へ入れられてしまう。それまでの当たり前の日常が、瞬時に閉ざされた。

アメリカにとってもそれは〝黒歴史〟だが、銭村さんらはヒラ・リバーで有刺鉄線に囲まれた生活を強いられることになった。そこにはもちろん、自由に駆け回れるようなフィールドもなかった。「彼らは、家、財産、すべてを失った」

ナカガワさんはそう振り返りつつも、こう続けている。

「心まで奪われたわけではなかった。野球への情熱は消えていなかった」

銭村さんは、収容所の外に広がる広大な砂漠を見て、球場をつくることを思いつく。それが収容所生活を生き抜くモチベーションとなり、また、野球をやりたいという思いが、現実を忘れさせた。

銭村さんはフレズノでも一から球場をつくった経験があり、それまでに3つの球場を完成させていた。息子らを伴い、銭村さんは草木を素手で取り払い、小石を拾った。やがて1人、2人と作業に加わった。そんな姿を同じ収容所にいたパット・モリタ(米俳優。「ベスト・キッド」ミスター・ミヤギ役が有名)が見ていて、後年、こう話している。

「彼らが、岩を掘り起こしているのを覚えている。彼らじゃなくてよかったと思ったよ」

それぐらい作業は過酷だったのだ。

ただ幸い、ヒラ・リバー収容所の監視が、球場造りを止めることはなかった。強制収容所はワカマツさんの祖父母らが入れられたような厳しいところもあれば、所長次第では規律も緩く、銃口が彼らに向けられることはなかった。そもそも脱走したところで、周囲は砂漠。監視側も、逃げようがないことを分かっていたよう。

手作りの球場は、43年3月に完成する。始球式は、収容所の所長が務め、やがて収容所内でチーム(32球団)がつくられると、リーグ戦も行われるようになったそうだ。

フィールドができてから、女性は、選手のユニホームを縫い、マットレスの一部を使ってスライディングパンツを作った。野球に熱中したのは男性だけではなく、女性も、子供も、ほんのひととき、その時だけは、笑顔になれた。

外部との試合も許可されるようになり、1945年4月18日には、その年、アリゾナ州では無敵だった高校チームを招待して試合が行われている。ナカガワさんはその試合を「ダビデとゴリアテの戦い」に例えた。

もちろん、ダビデが日系人の高校選抜で、ゴリアテがアリゾナ州で最強の高校チームである。そして、神話同様、日系人の高校チームが勝利すると、およそ8000人の観客が歓喜した。

"If you build it, he will come."

映画「フィールド・オブ・ドリームス」では、親に反発し、10代で家を飛び出してからは、会うことのないままこの世を去った若き日の父が現れる。

一方、銭村さんらがフィールドをつくったことで、どうなったのか。

「もしも、あのフィールドがつくられなかったら、惨めで孤独な日々を過ごし、何より、日系人の精神と魂は、失われたかもしれない」とナカガワさん。

あのフィールドにより、日系人は尊厳を保ち、生きる原動力を得た。

後年、銭村さんの2人の息子、健三、健四は広島カープでプレーした。銭村さんは50歳までプレーしていたという。ケリーさんの叔父、ジョニーさんは二世による狩猟、農業の生協を立ち上げた。

ケリーさんはいま、二世の野球の歴史の伝承に力を注ぎ、強制収容所に入れられてから80周年の今年、「Baseball's Bridge to the Pacific(太平洋の架け橋となった野球)」と銘打ったイベントを企画。オールスター期間中は、ドジャースタジアムにゼニムラフィールドで使われた木のホームベースや昔のスパイクなどが展示されていた。

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