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アスリート人生の価値とは どこかで誰かの役に立つ

アスリートは目に見える何かを生み出すわけでも直接的に誰かを助けるわけでもない。

実行委員長を務める富士山麓のレースのイベントで小学生に語りかける

先日、アルゼンチンの元サッカー選手、ディエゴ・マラドーナが亡くなった。生前は物議を醸す発言や行動で批判も多かったけれど、母国の人々の非常に落胆した様子をニュースなどで見ると、彼がどれほど愛されていたのかがわかる。

1986年のワールドカップメキシコ大会の準々決勝、イングランド戦での彼の活躍は圧倒的だった。その4年前に両国はフォークランド紛争で戦った因縁があり、アルゼンチンの人々にとってこの勝利はサッカーの勝ち負けをはるかに超越した特別な意味があった。それ以来、マラドーナは国民に力と勇気をもたらすスポーツ選手以上の存在となった。

陸上競技400メートルの高野進さんは、親類の子供に「足の速いおじさん」と呼ばれてショックを受けたそうだ。確かにどんなに傑出した陸上選手でも子供から見ればその通り。社会一般の人にとって陸上選手には何の存在価値があるのだろうと思い悩んだという。だが、日々自己と向き合い、400メートルという距離を極限まで速く走るために肉体を作り上げる過程は、芸術家が作品で表現するのと同じではないかと気づいた時、自分には世の中を変える力があると感じたという。高野さんはのちに、1991年東京世界陸上でファイナリスト(7位)となる歴史的な快挙をなし遂げた。

マラドーナや高野さんのようなレジェンド級ならまだしも、私のようなマイナーアスリートは社会にどんな貢献ができるだろう。存在意義はあるのかと時々考えてしまう。

15年間勤務した県庁をやめてトレイルランニングの世界に身を投じ、少々有頂天になっていた頃、かつての同僚が児童相談所でケースワーカーの仕事に就いた。この仕事はなんらかの事情があり、いろんな問題を抱える子の相談や援助をする大層骨の折れる仕事だ。彼は子供たちが少しでも良い方向へ向かえるよう手助けできたらと目を輝かせていたのに、当時の私は若干冷めた目で見ていた。

しかし、私が選手生命にかかわる大きな故障をし、もう活躍できないかもしれないと思い詰めた時、自分の存在はなんだったのか、という不安にさいなまれた。元同僚の世間的にはなかなか日の当たらない地味な仕事の方が、どれほど社会の役に立っているかと考えると、なんともいえないむなしさを覚えた。

あるとき、アスリートとして努力した過程を地元の小学生に語る模擬授業の機会をいただいた。目の前に座る子のご両親の方がよっぽど社会に貢献しているはずだと思うと、自分の体験談など聞かせる意味があるのだろうかと正直、自信はなかった。ところが数日後、走っている私を見かけた小学生が「ありがとうございました。頑張ってください」と声をかけてくれ、感激した。当時の小学生は数年たった今も、会うと声をかけてくれる。マラドーナほどの影響力はないけれど、地味ながらアスリートとして一般の人々とはちょっぴり異なる人生を歩んできた経験は、どこかできっと役に立つのだ。声をかけられるたびに自信を深めている。

(プロトレイルランナー)

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