近代五輪の歴史が示す、差別撤廃と女性の進出

女性蔑視と批判された東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗前会長の発言で、あらゆる差別を否定する五輪の理念にあらためて注目が集まった。だが、最初から国際オリンピック委員会(IOC)が差別に反対する理念を掲げていたわけではない。それは女子選手の五輪参加の歴史が顕著に示している。
第1回近代五輪の1896年アテネ大会に女子は参加が許されなかった。4年後のパリ大会はゴルフとテニスで参加が認められたが、1066人の参加選手のうち女子はわずか12人だったとされる。
女子への門戸は徐々に開かれたものの、1964年東京大会でも女子選手の割合は5000人を超える参加選手のうち13%にとどまっている。IOC委員の中には「女性がスポーツをするのは好ましくない」とする偏見も根強く残っており、女性が初めてIOC委員に名を連ねたのは81年のことだ。
だが、80年代後半から状況は一変する。84年ロサンゼルス大会で23%だった女子選手の参加比率は96年アトランタ大会で34%、2004年アテネ大会は4割を超えた。12年ロンドン大会では全26競技で女子の参加が可能になった。
時代の変化はもちろんだが、五輪への商業主義の導入も無関係ではない。大会規模を拡大しての女子種目の追加が可能になった。スポンサーから多額の協賛金を集めるためにも差別撤廃を目指すことが重要になった。
今夏の東京大会で女子の参加比率は48・8%となる見込み。IOCは開会式の旗手を各国・地域が男女ペアで起用するよう奨励している。
(編集委員 北川和徳)