日宋貿易拠点か、発見続々 博多に港護岸?輸出入品も
福岡市の「博多遺跡群」で、平安時代後期(11世紀後半~12世紀前半)に日宋貿易の拠点だった港の跡とみられる遺構や遺物の発見が続いている。今年に入り、護岸の可能性がある全長約70メートルの大規模な石積みが確認されたほか、これまでに、輸入した陶磁器や輸出した硫黄なども見つかった。市埋蔵文化財課の菅波正人課長は「この時代の港の遺構は全国でも少ない。当時の交易を知る貴重な手がかりだ」と話している。

博多遺跡群は福岡市内の広範囲に及んでおり、港とみられる遺構があるのは、繁華街・中洲に近い博多区上川端町の小学校跡だ。2018年に発掘を始め、19年に35メートルの石積みを発見。さらに掘り進めたところ、長さが倍近いことが分かった。自然石が積まれ、高さは最大で約60センチ。その近くには広場のような平地が広がっており、荷揚げ場の可能性もあるという。
当時この場所は那珂川の河口に近い海岸で、市は、輸入品を海上の交易船から小舟に積み替え、港に運んだとみている。
博多は当時、国内最大の交易都市だったとされる。日宋貿易は大宰府が管理し、港は博多に置かれたが、詳しい場所は分かっていない。

陶磁器など宋からの品は「唐物」と呼ばれ、都の貴族が珍重。遺構の周辺からは壊れた陶磁器が大量に見つかり、輸送中に破損した品を選別していた可能性がある。器の外底には墨で「網」や「張」などと書かれており、商品判別のため、宋側の商人が、荷札代わりに自分の名前を書いたと考えられるという。
九州大大学院の佐伯弘次教授(日本中世史)は「国内で、この時代の陶磁器がこれだけ多く見つかる例はない。国内外における流通の拠点であったことがうかがえる」と分析する。
一方、日本からの輸出品は刀剣や漆器、火薬の原料となる硫黄などだ。遺構周辺からは大分や鹿児島産の硫黄の粒が見つかった。遺構は12世紀半ばに洪水で埋まった痕跡があり、同時期に衰退したようだ。
さらに周辺を調査するため、石積みは今年3月上旬に埋め戻された。市は今後、発掘風景や出土品をホームページで公開する考えだ。〔共同〕