/

明智光秀、本能寺に行かず? 古文書に家臣の証言

織田信長が配下の明智光秀に討たれた本能寺の変(1582年)を巡り、光秀が本能寺(京都市中京区)の現場に居合わせていなかったとする学説が出てきた。金沢市に現存する古文書に、光秀は本能寺から8キロ離れた鳥羽(京都市南部)に控えていたとの家臣の証言があることが富山市郷土博物館の萩原大輔主査学芸員(日本中世史)の調査で4日までに判明した。

 明智光秀の肖像画=共同

映画やドラマでは光秀本人が軍を率いて本能寺に向かったように描かれるが、明確に裏付ける史料はないという。

萩原主査学芸員によると、古文書は金沢市立玉川図書館近世史料館所蔵の「乙夜之書物」。加賀藩の兵学者関屋政春が本能寺の変から87年後の江戸時代に記した。本能寺を襲った光秀軍を率いたとされる斎藤利三の三男で、自らも従軍した利宗が、加賀藩士のおいに語った証言として「光秀ハ鳥羽ニヒカエタリ」と記されていた。

古文書には光秀軍の兵士たちが京都市の桂川の河原で夜中に休憩を取っていた際に、本能寺へ向かうことを初めて告げられたことや、襲撃された信長が乱れ髪で白い帷子を着て光秀軍を迎え撃った様子の記述もあった。

萩原主査学芸員は「事件に参加し重要情報に触れる立場の人物の話で、後世の加筆の跡も見られないため、信頼性は高いと考えられる」と指摘。本能寺にいた信長側の家臣は数が少なく、光秀の本隊が出向く必要はなかったと分析した。研究をまとめた論文を近く発表する。〔共同〕

すべての記事が読み放題
有料会員が初回1カ月無料

セレクション

トレンドウオッチ

新着

注目

ビジネス

ライフスタイル

新着

注目

ビジネス

ライフスタイル

新着

注目

ビジネス

ライフスタイル

フォローする
有料会員の方のみご利用になれます。気になる連載・コラム・キーワードをフォローすると、「Myニュース」でまとめよみができます。
新規会員登録ログイン
記事を保存する
有料会員の方のみご利用になれます。保存した記事はスマホやタブレットでもご覧いただけます。
新規会員登録ログイン
Think! の投稿を読む
記事と併せて、エキスパート(専門家)のひとこと解説や分析を読むことができます。会員の方のみご利用になれます。
新規会員登録 (無料)ログイン