人間と向き合った映画評論家、佐藤忠男さん逝く

いつも書いている人だった。17日に世を去った映画評論家で日本映画史の研究者でもあった佐藤忠男さん。取材や打ち合わせのため喫茶店などで会う時はいつも先にいて原稿を書いていた。用件が済んで辞去した後も書いていた。急ぎの追悼原稿などを電話でお願いすると、さらさらと書いて、時に2時間もしないでファクスが入った。著作は共著を含めて150冊を超す。
まさに「呼吸するように書いていた」(日本映画大学の石坂健治教授)。単に速いだけではない。文章は平明でわかりやすい。特定の理論に依拠するわけではないが、どの原稿にも佐藤さんの実感なり人生観なりが垣間見える。人間の息吹があるのだ。
新潟の定時制高校に通い、働きながら映画評を投稿。1954年に大衆映画を論じた「仁侠(にんきょう)について」が「思想の科学」の鶴見俊輔氏に絶賛された。「映画評論」「思想の科学」の編集長を経て、映画評論家となり、「黒澤明の世界」「小津安二郎の芸術」「大島渚の世界」などの作家論が広く読まれた。日本人の情感の根源に迫る評伝「長谷川伸論」、日中戦争時の両国の映画人たちを描く「キネマと砲聲(ほうせい)」は代表作。映画史研究の集大成「日本映画史」全4巻で芸術選奨文部大臣賞を受けた。
80年代からはアジアとの映画交流に尽力。日本映画紹介のために訪れた各国・地域で見たさまざまな映画を、日本に持ち帰って積極的に紹介した。「誰もが情報に簡単にアクセスできない時代にアジア映画という密林に分け入った先駆者。発見し、紹介し、批評する仕事を1人でやっていた」と石坂氏。91年にアジアフォーカス・福岡国際映画祭のディレクターに就任した時は「映画の動向を見ていると、社会の動向が見える。日本映画の黄金時代にあったような雰囲気が、今のアジアにはある」と記者に熱く語った。
アジア映画への傾倒を「軍国少年の贖罪(しょくざい)意識」と謙遜することもあったが「国際交流の基本は人と人とのつきあい。出向いて、歩いて、語り合うことの大切さを佐藤さんに学んだ」と石坂氏は語る。著書がアジアで広く読まれているだけでなく、来日する研究者を歓待し、映画人とのつきあいを絶やさなかった。
学長を務めた日本映画大学では、学生に厳しいコメントが浴びせられる合評会で、救うような言葉をかけるのが常だったという。「未熟な者にしか撮れない面白さがあるんです」という言葉が佐藤さんらしい。
(古賀重樹)