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150年生き続ける 不思議な運気を宿す土蔵

江戸時代の末年に建てられ、関東大震災と第2次世界大戦の災禍をくぐり抜けてきた東京・浅草の土蔵が消滅の危機を免れ、深大寺(東京都調布市)に移設される。材木問屋の蔵として生まれ、近年は演奏会や展覧会の舞台として、人と人をつないできた。その〝人脈〟で自らの活路を開いた蔵の不思議な生命力が、関係者らを感心させている。

浅草寺に近い一角に、のちに「ギャラリー・エフ蔵」と名付けられる土蔵(台東区雷門、文化庁登録有形文化財)が建てられたのは1868(慶応4)年。江戸から明治へと切り替わった年だ。

材木問屋「竹長」が、貴重品などを納める文庫蔵として使っていたらしい。

1931年、蔵は竹長の子孫から、金属取引を手掛ける「渕川金属事務所」に引き継がれた。会社を先代から継いだ村守恵子、渕川晶子両氏ら姉妹が1990年代、内部を改装し、ギャラリー、カフェとして利用しながら守ってきた。

すでに移築のため解体され、現在雄姿をみることはできないが、その頑丈さはかいわい随一。45年の東京大空襲で一帯が焼け野原となるなか、立ち続けている写真が残る。明治維新以来、150年あまりの歴史の生き証人だ。

このほどの周辺の一体開発に伴い、土蔵は岐路に立った。移築先が見つからなければ、取り壊され、土に返るのみ。なんとか存続させたいと村守氏を代表に「蔵を守る会」ができた。支援の輪はみるみるうちに広がった。

朗報が入ったのは昨年秋。深大寺から「移築して活用したい」との申し出があった。

古刹、深大寺にはもともと江戸時代末期の建築物があった。そのほとんどが昭和40年代に取り壊され、近代建築に生まれ変わった。かろうじて1867(慶応3)年築の旧庫裏(寺の表記では庫裡)が残され、かつての境内の雰囲気を伝えている。

住職の張堂興昭(ちょうどう・こうしょう)氏は失われた歴史的建築物を惜しみ、もし新たな建屋が必要になっても、新築するよりは旧庫裏に見合うような歳月を経たものがいい、と以前からネットなどで古民家など探していたという。

ギャラリー・エフの件は建築史家、稲葉和也氏との雑談のなかで知った。稲葉氏は台東区の文化財保護審議会委員としてギャラリー・エフの歴史的な価値を見いだし、保存活動に携わってきた。深大寺のある調布市などでも文化財保護にあたっている関係で、たまたま「浅草にいい蔵があるんだが……」という話題になった。「そこから話が一気に進んだ」と村守氏。すんでのところで蔵は救われた。

深大寺の旧庫裏と、1年違いで生まれたギャラリー・エフ。浅草に駆けつけた張堂氏の第一印象は「似ている」だった。「建物の規模こそ違うけれど、同じ時代の薫りがした」

深大寺の旧庫裏は開放してある戸口から、中をうかがえば、今は入手困難と思われる太さの梁(はり)が渡され、かまどのにおいが漂ってくる。そうした江戸の香りと同じものが、ギャラリー・エフにはあった。

深大寺の旧庫裏に隣接した敷地に移設される見込みの土蔵は、もとからこの地にいたようなたたずまいで、参拝者を迎えてくれるだろう。

土蔵の文化財としての評価は高い。90年代の改装にあたって調査すると、天井の梁に年号、施主が墨書されていた。

「慶応四戊辰年八月吉日 三代目 竹屋長四郎 妻い勢 倅(せがれ)小三郎 建之」

当時の工法や建築材料を、はっきりした年号によって特定できる。厚さ30センチに及ぶ土壁は何層にも塗られ、江戸の華とまでいわれた火災への備えがなされていた。

改修時、戦災を受けて貼り付けられていた外壁のトタン板をはがすと、赤茶けた壁面が現れた。土が焼け、陶器の状態になっていた。

それでいて、なぜ蔵は焼けずに残ったのか。NHKの番組で検証したことがあったという。

大学で壁を再現し、炎にさらしてみると、焼けたのは表面から6㌢までで、高熱は内部に及ばないことがわかった。

震災の揺れに耐えられたのは頑丈な壁や屋根の造りによる。土壁の芯になる「こまい」とよばれる構造に特徴があった。普通は格子状に交差させた竹を縄で結わえるが、ギャラリー・エフでは竹でなく木材を用いた「木ごまい」で、縄も藁(わら)縄より強いシュロ縄を使っていた。解体工事でも、腐食せず、ほぼ建築当時のままとみられる状態で残っているのが確認された。

伝統建築の修復などを手掛け、蔵の移設工事に加わっている「あじま左官工芸」(東京・葛飾)の阿嶋一浩社長によると、「木ごまい」は主に城郭などに用いられる手法で、一般の建築では珍しいという。

一帯の地盤は比較的軟らかく、重たい蔵を支える基礎の工法も注目された。蔵の解体後調べたところ、予想外のものが出てきた。稲葉氏は地盤改良のために杭(くい)が何本も打たれているはず、とみていたが、その痕跡は確認できず、代わりに意外な構造がみつかった。

鉄筋コンクリートによる基礎部分の補強だ。竹長の子孫によると、関東大震災の翌年、1924年の施工という。「民間での鉄筋コンクリートの採用例としてはかなり古い」と稲葉氏は驚く。

江戸時代以来の建築技術とともに、稲葉氏を感心させるのは当時の人々のたくましさだ。時代の節目であたふたする「お上」の混乱ぶりをよそに、町の人々は自分たちの暮らしを守り続けていたらしい。

「戊辰の年といえば、上野の戦争でボカン、ボカンとやっている年。すぐそこで大砲を撃っているときに、この蔵を作っていた。戦争は町民とは関係なかったんだろうね」

戦地となった上野は浅草から目と鼻の先だが、争いは武士やお偉いさんのもの。砲声が響きわたるなかでも、大工は大工の仕事をし、左官は左官の仕事をしていた。「こちとら、それどころじゃねえよ」とぼやきながら。そんな想像を巡らしてもいいだろう。

幕末の争乱のなかで生まれ、明治、大正、昭和、平成、令和と世の中の変化をみつめ、人の思いがしまい込まれてきた蔵は、何か特別なものを宿し始めたようにもみえる。

「この蔵は自分の意思で、自分が残れるように人を集めているようです」(渕川氏)

改装工事の際は多くの職人が集まり、腕をふるった。ギャラリーとなってからは出演者やお客をとりこにしてきた。

落語や薩摩琵琶。さまざまな演じ物に、蔵は応じてきた。どんな小さな音でもしっかり聞こえ、どんな大きな音でも耳障りにならないことが、出演者やお客を驚かせた。「木と土でできているからでしょうか」(渕川氏)

受け入れ先の深大寺でも「人好き」な蔵の性格に合わせ、人が集うスペースとして活用する計画という。国宝・釈迦如来像をはじめとする文化財を備えるお寺として、最も肝心な火の用心のシンボルにもなりそうだ。

安住の地を得て、土蔵が再び雄姿を現した際にはお参りして、そのたくましさと運気にあやかりたい。

篠山正幸

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