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サイバー空間に及ぶ生物多様性 遺伝資源ルールで対立

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生物多様性の保全をめぐる国際交渉がサイバー空間に波及している。2022年末に開かれた国連の生物多様性条約第15回締約国会議(COP15)で、医薬品や化学品などの基になる「デジタル化された遺伝情報」をめぐり新ルールをつくることで合意した。ただ先進国と途上国の主張の隔たりは大きく、今後の交渉次第でバイオ産業が広く影響を受ける恐れがある。

「遺伝資源のデジタル配列情報の使用から得られる利益は公正かつ衡平に配分すべきことで合意する」。22年12月にカナダで開かれたCOP15の採択文書にはこう盛り込まれた。

この会議では10年に名古屋市で開いた第10回締約国会議で決めた「愛知目標」の後継として、30年までに達成をめざす23の新たな国際目標で合意した。ほかにも企業活動による生態系への影響を評価して開示を促すなど、地球規模で劣化する生物多様性の保全へ一定の前進があった。

医薬品など研究規制に懸念

一方で、玉虫色の合意になったのが遺伝資源のデジタル情報の扱いだ。COP15ではデジタル配列情報から得た利益の配分に加え、それを実行する「多国間メカニズムの構築」で合意した。だがそもそもデジタル配列情報の定義が曖昧なうえ、具体的な規定は2年後の会議に持ち越した。ルール次第では医薬品、食品、化学品の研究開発が規制され、企業や研究者は行方を注視している。

そもそも「遺伝資源」や「デジタル配列情報」とは何か。

医薬品や食品、化粧品などには動植物や微生物が持つ有用成分を原料にした製品が多い。たとえば人工甘味料のステビアは中南米で住民が服用していた植物に由来し、インフルエンザ治療薬のタミフルは中国原産で香辛料に使われる八角の成分が基になった。

そうした有用成分をつくる遺伝子が遺伝資源で、生物多様性条約では生物種の多様性の保全と並び「遺伝資源の持続的な利用」を基本理念に掲げている。

もともと遺伝資源の多くは熱帯などの途上国にあり、先進国の企業や研究機関が動植物や微生物を持ち帰り、製品を開発する例が多い。鉱物資源と同様、提供国に権利があり、10年に採択された「名古屋議定書」では利用国側は提供国の同意を得た上で、あらかじめ利益の配分を定めた契約の締結を求めた。

このルールは遺伝資源へのアクセスと利益配分の頭文字から「ABS」と呼ばれ、名古屋議定書の締結で一件落着したかのようにみえた。

ところが遺伝子の解析技術の高度化で様相は一変した。動植物や微生物を提供国から持ち出さなくても、遺伝子解析用のシーケンサーを使ってその場で遺伝情報を読み取れる。得た情報はデータベースに収められて流通し、研究開発で広く利用されるようになった。

途上国と先進国で主張対立

途上国など提供国側は「動植物だけを条約の対象にするのでは利益の公正な配分を受けられなくなる」と懸念を強め、デジタル配列情報を条約や議定書の対象にするよう求めてきた。利用国側が売り上げの1%を提供国に還元するよう求める提案も出ている。

一方、先進国の政府や企業はこれに反対してきた。デジタル情報をもとに遺伝子の塩基配列を人工的に設計し、ゲノム編集などで微生物を改変して有用物質を効率よく生産する「合成生物学」が急進展しているからだ。これらは医薬品や食品、化学品、農業などで応用が期待される。デジタル配列情報が条約の対象になればデータの利用自体が規制されたり、対価を支払ったりする必要が生じる。

日米欧はデジタル配列情報を収めたデータベースを共同運用しており、日本でも国立遺伝学研究所が企業や研究機関に提供している。ルール次第ではその運用が見直しを迫られ、研究開発にブレーキがかかる恐れもある。日本学術会議などは「(新型コロナウイルス感染症など)新たな感染症の研究やワクチン開発なども打撃を受ける」と主張してきた。

バイオ関連産業が集まるバイオインダストリー協会・生物資源総合研究所の市原準二所長は「COP15の合意により遺伝資源の利用は新しい局面に入った。ルールづくりはこれからだが、科学や産業の進展を阻害しないように産業界も注視する必要がある」と話す。

脱炭素の取り組みにも影響

このルールの行方は脱炭素の取り組みにも影響する。微生物の働きを活用し、発電所や工場で回収した二酸化炭素(CO2)から有用物質を合成したり、土壌中で分解する生分解性プラスチックを開発したりする研究が世界で進んでいる。日本でも経済産業省が22年10月、「バイオものづくり」と名づけ、10年間で1770億円を投じる研究計画を公表した。

有望な技術の一つが「水素細菌」と呼ばれる細菌を改変し、エタノールやバイオ燃料を効率的につくる方法だ。国内で入手した微生物を利用する限りは問題ないが、国外で得た微生物やデジタル情報を基にすると生物多様性条約に抵触し、研究が制約を受ける。

地球環境問題とサイバー空間のつながりは意外に深い。たとえば地球の気温上昇の予測はスーパーコンピューター上に「デジタル地球」を再現し、膨大なデータを入力して予測する。こうした予測モデルやデータの多くは公開され、科学者らは半ば公共財として活用してきた。

一方で、遺伝資源をめぐる途上国などの主張はサイバー空間の情報を囲い込もうとする動きともいえ、研究者は「デジタル配列情報は共有の財産としてオープンに利用できる仕組みを維持すべきだ」と一様に主張する。

今後の交渉では、研究開発を阻害しないルールにすることに加え、条約が掲げる「遺伝資源の持続的な利用」に寄与するかどうか検証しながら合意をめざす必要がある。

(編集委員 久保田啓介)

[日経産業新聞2023年2月24日付]

※掲載される投稿は投稿者個人の見解であり、日本経済新聞社の見解ではありません。

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