永田町アンプラグド なぜ自民党だけが「総裁」 党首名の謎を追う

終盤戦に入った参院選で全国を駆け巡る党首の呼び方は、各党によって違う。古めかしい総裁から代表まで、呼び方は企業の「社長」「CEO」などと同じように、変わらぬもの、時代のはやり、双方を映し出している。
「党首=総裁」の元祖は伊藤博文
自民党が結党以来、つかっている「総裁」が初めて歴史に登場したのは幕末の1862年、天皇の命令で誕生した「政事総裁職」が始まりだ。就任したのは前福井藩主・松平慶永(春嶽)。このとき将軍後見職、京都守護職という役職も置かれ、それぞれ一橋家当主・徳川慶喜と会津藩主・松平容保が就いた。政局の混乱を打開するため、将軍家一門の大物を幕府の最高職に配した。
最後の将軍となった徳川慶喜は幕政改革で陸軍総裁、海軍総裁、外国事務総裁など総裁職を乱発するが、大政奉還により江戸幕府は幕を閉じる。
代わって誕生した維新政府は「総裁・議定・参与」の三職を置き、天皇中心の新国家樹立をめざした。なかでも総裁は最高職で「万機を総(す)べ、一切の事務を裁決す」として政治全般を統括した。これが契機となって、多くの政府機関や公的組織が総裁を採用するようになる。現在の日本銀行や人事院などはその名残だ。
政党トップとしての総裁の始まりは、初代首相・伊藤博文が中心となって1900年に立ち上げた立憲政友会。日本の保守政党の源流であり、現在の自民党も大きくみれば政友会の系譜に連なる。初代総裁には伊藤自身が就いた。
では、なぜ伊藤は党首名に総裁を採用したのか。
日本近現代史が専門の熊本史雄・駒沢大准教授は「政友会の党首が総裁となったのは、明治初期の総裁職に規定された裁決の重み、すなわち合意形成の重要性を伊藤が想起した結果かもしれない。総裁という党首名には、決める政治を志向し、それまでの政党とは異なる組織にしようとした伊藤の意図が込められているともいえる」と語る。
「総理総裁」に特別の重み
政友会以降、保守政党の多くが総裁を名乗った。これらの出身者が戦後に立ち上げたのが日本自由党と日本民主党で、55年の保守合同を経て自由民主党となる。
自民党は結党以来の歴史の大半を政権与党として過ごした。総裁がすなわち首相(総理)であることは当然で、そこから「総理総裁を目指す」「総理総裁の器」との言葉が自然に生まれてきた。
93年の野党転落時、党内から党名変更も含む抜本改革を求める声が上がった。党改革本部は具体策の検討に着手するが、翌年の与党復帰で立ち消えに。2009年の下野では、党総務会長などを歴任した堀内光雄氏が月刊誌で「自民党が総裁などと大時代の呼び方を続けている場合ではない」と呼びかけたが、こちらも早期の政権奪還の機運が高まる中で顧みられることはなかった。
自民党が「総理総裁」と首相と党首を同一視したのは、ほかの野党が万年野党に甘んじ、自民党は永久与党だったからだ。
非自民は「委員長」から「代表」へ
55年体制下で野党第一党だった社会党の党首は「委員長」、ナンバーツーは「書記長」と称した。当時は社会主義の全盛時代。ソ連など共産圏諸国の体制や、支持母体である労働組合など、社会主義的な組織にならったものだ。共産党はもちろん、民社党や公明党も党首は委員長、ナンバー2は書記局長や書記長だった。自民党が保守で、その他の野党は革新陣営とされ、保革伯仲、保革逆転などの言葉が飛び交った。いったん自民党から飛び出した河野洋平氏が結成した新自由クラブが党首は代表、ナンバー2は幹事長としたのは、革新ではないが、自民党ほど古めかしくないとの意味も込めていた。
新自クがつかった「代表」は冷戦終結と、非自民勢力の勃興で一大ムーブメントとなった。細川護熙氏の率いる日本新党、武村正義氏の新党さきがけ……。自民党を真っ二つにした小沢一郎氏の新生党は少し趣を変えようと「党首」「代表幹事」、談合批判の強かった国会対策=国対ポストは「国会運営委員会=コクウン」をつかい、代表幹事とコクウンは非自民勢力のナンバー2がこぞって採用した。
だが小沢新進党の失速、自民党の政権復帰とともに、代表幹事・コクウンは消えた。いまも「党首」の呼び名を採用しているのは社会党が96年に衣替えした社民党だけだ。
今回の参院選で有権者は安倍晋三首相=総裁、民主党の海江田万里代表、共産党の志位和夫委員長、社民党の福島瑞穂党首らにどんな審判を下すのか。答えは21日に出る。
(吉田修)