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六甲の泥 和紙に息吹 名塩の谷徳製紙所(未来への百景)

兵庫県西宮市

張り詰めた水面に簀(す)の子を落とし、両手で一気にすくい上げる。手すき和紙職人の谷野武信さん(79)が持ち上げた簀の子を隅々まで凝視した。植物を煮て溶かした紙料液がまんべんなく広がるように細かく揺り動かす。

谷徳製紙所は、西宮名塩(なじお)地域に伝わる名塩和紙を製作している。江戸時代に広まり、当時は「名塩千軒」と言われたほど製紙所が林立した。現在残るのは谷徳を含め2軒だけ。谷野さんは2002年、工業技術・和紙の分野で人間国宝に認定された。

名塩和紙は紙料液に泥を混ぜるのが特徴だ。谷野さんは「泥に含まれる凝灰岩のアルカリ成分でシミやシワがつかない。虫に食われることもない」と胸を張る。100年以上前に作られたという和紙を見せてもらう。確かにほとんど劣化していない。

原料の凝灰岩は近隣の六甲山系から調達する。土を細かく砕いて水に溶かし、木綿の布で濾(こ)し、水面に浮いてくる微粒子を使う。凝灰岩を使い分けることで青、白、黄、淡黄、茶褐色の5色の和紙ができる。水は名塩の山から専用のパイプで運ぶ。カルキなどを含む水道水では質の良い和紙はできない。

もう一つ重要な原料として紙料液に使う雁皮(ガンピ)がある。一般的なミツマタやコウゾと違い人工栽培での量産が難しい植物だ。武信さんの息子の雅信さん(44)は「雁皮から不要な黒皮と甘皮をむきとるのは全て手作業。純度の高い紙料液にするため手間ひまを惜しんでいられない」と話す。生産量は1日平均70枚。紙料液づくり、紙すき、天日干しと、どの工程にも時間と神経を使うからだ。

偽造しにくいため藩札として使われたほか、障子やふすま、金屏風の下地、金箔を打って伸ばす際に挟む「金箔打ち紙」など用途は多い。円山応挙ら江戸時代の日本画家が障壁画に用いた。近代以降も、洋画家の梅原龍三郎が「絵の具の発色が良い」と愛用。多くの画家を魅了してきた。現在は二条城、桂離宮、西本願寺といった歴史的建造物の修復など、文化財保存でも活躍する。ローマ法王に献上されたことがあり、評価は高い。

越前から名塩に和紙の技術が伝わったのが江戸初期。高級品を使いにくくなった戦中、洋紙が普及した戦後を経て、全国の有力な和紙産地は衰退していった。長い年月を経ても色あせない名塩和紙を次代に伝えようと、谷野さん親子の奮闘が続く。

文 安芸悟

写真 浦田晃之介

 〈取材手帳から〉紙の手触りをうまく伝えるのは難しい。「ざらざら」か「なめらか」かでいうと「なめらか」に近い。硬い質感とひんやりした湿度感から「シャープで気品のある手触り」と表現したくなった。
 名塩和紙は一般的な「流しすき」ではなく、糸につるさず自分の腕力だけで支える「溜(た)めすき」という技法を使う。一人前になるのに10年以上かかる。体験してみたが、簀の子を持ち上げるとずっしり。かなりの力仕事だ。水槽に入れるたび紙料液に偏りが生じ、繊細な技術も求められる。武信さんは「私もまだ未熟、人生これ修行です」と口元を引き締めた。

 〈カメラマン余話〉築80年ほどの作業場に水がはね、したたる音が響く。りんとした雰囲気を表そうと格子窓から差し込む光のみで撮ることに。よし、と手応えをつかんだ途端、聞こえたかのように谷野さんが「このへんでよろしいですね」とにこり。さすが匠(たくみ)、と驚いた。

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